二年に続く水損の被害で苦しむ備後三次藩の浅野長治から助資の願いがあり、綱利は来年一万両を十年賦で渡すと約していたが、八月十六日に早めて渡すことを告げる。同年には富山藩へも銀五百三十二貫目を貸与した。
十月十二日金沢で側室の美遠が庭で転び男子を早産、千世松と名付ける。綱利は三十六歳、十八日に千世松の諱を当分は清と称することを告げた。十一月十五日組頭へ、十二月二十六日馬廻頭へ職務心得を諭す。
覺
一、組頭たるものは數多の侍をも指引申付置事に候へば、別而心底を相嗜、内外作法不レ及迄も、組中之ならはしに罷成候樣に、心懸儀第一に候。勿論私之榮耀をやみ、專ら家業をはげみ、萬端つゝしみをむねと致、油斷有間敷候。若頭々之行跡不レ宜候而者、組中之作法等正敷樣支配仕儀難レ成、却而組中おこたり之端たるべきの條、堅此旨可レ存事。
(中略)
一、組之輩連々勝手不如意に付加二助成一候所、曾而其しるしなきものも有レ之、剩一兩年は手前行詰候族多由、沙汰之限候。自今以後堅く私の榮耀をいたさず、家業專一に可二心懸一之旨急度申二聞之一、進退(身代)成立候樣別而介抱いたすべく、此上故なく勝手行詰奉公ならざるもの有レ之組は、其頭迄可レ爲二越度一之條隨分可レ入レ情候。若又儉約に事よせ、利欲にして義理をうしなひ、或無用の器物をこのみ、或宴樂遊興を所行とし、殊には不行儀の好色、其外侍に不二似合一事業有レ之輩者可レ爲二曲事一之條、兼而可レ存二其旨一事。
(中略)
右之趣得二其意一、自今以後急度可二相心得一者也。
延寳二年十一月十五日如二例年一出仕之後、組頭共御前へ被二召出一、御直に被二仰渡一一卷也。〔御 定 書〕
十一月火つけ・徒党を組み悪事・大罪の駆け落ち人・強盗・辻斬・追剥・毒買・人売買・贋金・落とし文・貼り文といった重罪を知らせた者には賞与すると令した。十二月二十六日綱利は老臣等へ常に時務に関して意見を述べるよう求めた。二十六日往還筋の道奉行を廃止し、これ以降は十村が修繕するよう告げる。
同三年正月十一日改作奉行から十村等へ勧農を伝える。二十三日綱利は幕府へ昨年の田地被害を四万八千五百十石と届け出た。この内砺波郡三十五ヶ村・二千四百九十石、射水郡六十四ヶ村・九千百八十石、新川郡百四十九ヶ村・七千二百十石の被害であった。二十八日郡奉行支配の足軽勤務と給与について報告を命じ、三十日改作奉行の敬称は様を用いず殿にするよう達した。同月与力裁許に永原左京と篠原織部を任じ、年頭謁見の際に与力へも独礼を許すことにした。
二月十一日春と夏の御貸米手続きに付き御扶持人十村が吟味し算用場奉行が奥書して年寄へ提出するという手続きを御算用場から寄合所へ上申する。十九日米や大豆の値上がりで幕府は駄賃を東海道が三割増・それ以外は二割増、宿賃を倍にすると令したことを達した。二十五日金沢城三ノ丸橋爪門や石川・河北両門通過を許す従者の数等を定め、城中の泊番は七ツ過ぎに交代する等の規則を定めた。夏に米一石が銀八十目、大豆も高値になっているため、領民へ十年賦で御救米を六百石放出することを決め、必要としない者を調べるよう命じた。二十七日藤内と皮多の困窮者を届けさせる。二十八日大組に任じた三人のうち北川庄右衛門は家禄が少ないため二百石、他の二人は百石を職俸とする。三月一日十村等へ郡中の瞽女や座頭で困窮者を上申するよう達す。二日千世松が金沢神明社に社参した。八日能登・石川・鹿島郡宛で届け出た困窮人の中の三歳から十歳までの男子を上申させ、十一日に同郡宛で改作奉行より百姓等を保護しない十村等を注意させる。二十一日京の藩邸が町役を支払っている(毎年小払銀)。塗師屋町中町役へ銀十枚・同町中へ二枚・町年寄へ十六匁・同町番人へ三匁・丸山内中町役へ銀八枚・同町中へ二枚・同町町代へ一枚・淀御荷物宿(寛文八年から)三百目・同所問屋へ二枚・牧方御荷物宿(寛文十二年から)三百目・同所問屋へ二枚とある(銀一枚は四十三匁)。二十四日御鷹場付近の家中邸宅での捕鳥を禁じ、新番徒頭を中川采女と津田伊織に初めて任じた。二十六日他国へ使いに出る家中へ駄賃・宿賃とは別に日当の米(一人に一日一升)を支給することを告げた。ただし後払いで帰る前月の平均値段(金沢・小松・今石動・高岡・魚津・七尾・富木)をもって知行取は出銀、切米取は御納戸銀から渡す。二十七日火事で金沢城が危なくなった時に殿様子女は御広式から出て、ここが危ないなら東・南の土戸から出ることを定めた。
四月四日前田利明が江戸城で参勤の礼をし、御太刀目録・白銀五十枚・綿百把を、御台所へは白銀十枚と綿百把を献上し、女中へも銀三・二・一枚ずつを配った。
六日百姓へ凶作だからといって訴訟等をしたり騒擾したりはしないように諭す。羽咋と能登の十村等へは八日に相談所へ集まらず村を廻って耕作を励ますよう指示し、同日綱利は江戸へ着くと、家綱は稲葉美濃守を派遣して慰労した。十二日に登城し御太刀馬代・白銀五百枚・袷五十を献じる。九日家中で家族のいない者を届けさせ、家中の弟姪甥で射手・異風・新番・書写役・与力等になりたいと願うものを技量により採用することを達した。二十八日御広式番人に誓詞を提出させた。
閏四月一日富山城下で大火が発生し三の丸まで焼失する。そこで加賀藩から五月に富山へ一万両を貸与し六月十日証文を取る。これによれば利次へ貸与していた未返済分が六百九十貫八百二十目、正甫へ八月に貸与した五百三十二貫目があり、それらを含め千二百二十二貫八百二十目と金一万両となり、これを来年から十三年賦で暮に三千四百七十九石の米で返済させることにする。十五日千世松(太郎清)が夭折した。責任を感じた美遠は屋敷を下がり、後に小堀勝経へ嫁す。
二、方々への資金支援
石川郡で六月十日改作奉行が十村へ勧農を告げ、羽咋・能登郡では七月二十日に豊作となったから小作料の引き上げに付き伝える。七月二十二日村肝煎や走り(村に一人ずつ)の給米を保証する。九月二十五日能登で争論が起きていた土方領との境に築いた土堠(塚)を一千余ヵ所が成った。一ヶ所銀四匁百姓請負で双方が納得する。秋には小将や馬廻組に馬匹を委託して飼わせた。十月一日今年の皆済期限を十一月十日とする。四日領内各駅に駄馬が減っている理由と現在の数を届けることを命じる。十一月十六日小物成と散小物成の清算期限を翌正月・二月の内とする。同月に幕府の大奥女中の音羽が綱利に資金融通を依頼してきた。音羽は寛文十六年正月十六日にも三百両を借りていたが、これは返済無用として新たに五百両を貸した。さらに同年大聖寺が不作のため、五百石ずつ二回の計千石を貸与する。足軽と同小頭の給米を二十俵と三十俵に改定した。十一月二十五日京でまた大火が発生した。
同四年正月十八日村肝煎と走りの給米を定める係を十村とし、このうち越中領では砺波郡で戸出村又右衛門・和泉村市右衛門・宮丸村次郎四郎・田中村三右衛門・内島村孫作、射水郡で開発村源内・島村次郎右衛門・下條村小右衛門・大白石村三郎右衛門・津幡江村宅助、新川郡で嶋尻村刑部・殿村四郎左衛門・新庄村理右衛門・正院村次郎兵衛が任じられた。
京で四辻大納言公理(きんあや)の屋敷が昨年末の火事で類焼し、室が前田利政女(利常の養女扱いとも)である縁から綱利を頼り、三月九日奥村因幡は金五十枚貸与することを返答した。晦日火災や葬礼を見るため群がることを禁じる。四月十五日綱利が就封の暇を受けた。
大和国宇陀松山の織田長頼から借財の申し入れがある。織田信雄の子高長が前田利常のもとに身を寄せ(後に信雄の宇陀三万千二百石を継承)、元和六年に加賀で生まれたのが長頼であった。一旦は前田家に仕えたが、万治二年十二月に宇陀を継いでいた。前田家としては玉泉院の縁で何とかしたいのだが、今は財政的に余裕が無いとして謝絶した。
五月十二日江戸へ遣わした谷七兵衛が職務を怠り勤番供役を除かれる。八月十一日井波から金沢へ移った大工肝煎與三右衛門に屋敷を与えた。十六日珍しい鶴(丹頂・姫鶴・暹羅(しゃむろ)鶴等)や雁(野雁)を見つけたら、越中では笹(篠)島豊前・上村八左衛門・有沢孫作・森山小左衛門へ知らせ、できれば生捕りにして送るよう触れる。二十八日養女の恭姫(前田利意女)が粟ヶ崎に晦日から三日のうちに行くので十村等に準備を命じた。九月十九日京の町人菱屋次郎兵衛に京都加賀藩邸の裁許を依頼する。十一月二十二日家綱から鶴が贈られた。十月家中へ試験による登用を布告した。
同五年正月十日御広式の女中が寺で祈祷すると言って御納戸銀を使うことを禁じた。ただし功労のあった「ゆうしやう」に渡す五十両と松村・中山へ渡す計五十両は藤田平兵衛と永井伝七郎から別に渡す。十三日専姫が江戸で生まれる。生母は江戸の牢人津田一友の女である。二十三日江戸へ参勤中には金沢城下で月夜でも提灯を携え往来させる。それまでは火の用心のため月の出ている日は灯さなかった。三月十六日子小姓(小小姓)を奥小将と改めた。十七日役儀を命ぜられたら謝意を表すため殿様へ物を献上するという習慣を止める。ただし御徒に任じられた場合を二十日に達し、新番組に限っては御兄弟が御礼登城し鳥目百疋と年頭御礼二十疋を上げる等を規定した。二十三日追放処分された者は出家しようとも領内に入ることを禁じる。二十四日足軽で斬罪に処されるはずが牢死したとしても、代わりにその子が代わって処されることは意味のないこととして今後は行わないことを達す。
四月一日奥村伊代栄尚・奥村因幡庸礼・前田対馬孝貞・横山左衛門安次・本多安房政長から綱利に誓書を上り忠勤を約した。江戸に着いた綱利は十五日に登営し参勤の礼を行う。六月二日百姓が詐欺にあわないためと頼母子を禁じた。京都の町医者蔵田意休の女が金沢で綱利の子を宿すが、十日に月足らずで出産し死産、屋敷を下がり奥村斎宮へ嫁した。
八月十九日職俸に付き新番徒頭・大組足軽頭・先手足軽頭を各百五十石、小松馬廻番頭を百石と定める。二十四日農村の神事で人を多く集めて百姓に散財させることを戒めた。同月に御用聞役を新設する。能登では風害で秋の実りが不作であった。閏十二月二十二日家中の遺族で禄を失い生活が困窮している者へ扶持を与えることを告げる。綱利は前年末組頭に困窮する組下を救う資金を交付しようとするが、財政悪化を懸念する重臣の反対を受けていた。同年正月に家中の負債が二万貫目に達していることが分かり、三月に二万貫目を用いて借用に回すことを決定する。この年に江戸で外出する際の御供を百四十七人その他と決めた。また御手廻小者を五組編制(一組三十人)する。
同六年正月二十四日町方の頼母子について規定を定め、利益ではなく助け合いを目的として証文を取り交わすことを触れる。同月に十村・御扶持人等から職務の誓紙を取る。二月二十日鞴を使う業種(やかん屋・かざり屋・しろかね屋・細工所)には防火の設備を義務付ける。三月六日羽咋・能登・鳳至・珠洲の改作奉行、十八日郡奉行に郡から奉公へ出た者が百姓の迷惑も考えずに戻ることを禁じた。同月に村高・物成・代官米・作食米の額や各村の絵図について秘密厳守を達した。四月六日綱利の帰国に備え往還道を整備させる。十日百姓が酒・地黄煎・小間物・呉服類を買って奢侈することを禁じる。
五月一日に綱利は就封の暇を受ける。江戸を六月二十一日に発って帰国するので十六日に郡中での馬匹六百匹ほどの準備を触れた。古書や古器等に関心のある綱利は八月十一日に領内へ達し、閲覧したいので所有者は名乗り出るよう告げた。同月に笠舞村の非人小屋七十七間に収容されている者で普請等に従事する里子には昼夜二合五勺ずつを支給する等を定め、十三から十五歳は三合・十六から十八歳は三合五勺・十九からは四合の小遣(多忙の節は昼に一合増)等の細目を決めた。九月十四日綱利に豆腐を出すため新潟に矢津屋弥三右衛門と豆腐屋市右衛門が銀二十枚ずつ預かり調達へ出るため請書を提出した。九月十六日家中の嫁取に際し聟と舅の間で交換する礼物は職禄によらず同じものとするよう令す。二十三日清泰院二十五回忌法会が伝通院で執行され、家綱は稲葉美濃守を派して白銀二百枚を供えた。二十七日家中提出の由緒書には義絶した親類縁者も記すことを達した。同年に詩文の師である木下順庵の嫡男順信を、順庵に加増したことと同じだとして二十人扶持を禄す。綱利は三十歳ころまで作詩を好み、その後は文を良くして文字の意味や古今の文体に関心を持って儒者に考究させている。書も池田松斎(本阿弥光悦門流)に学んだ。なお絵は写生を度々して鷹の図等もある。
この頃に馬廻佐々主計が極度の貧困で借財が二百貫目に達していることが問題になっていた。組頭が関わり借財返済と家政立直しを指示するが収支を明確にせず、藩に借銀を申し込むが認められなかった。そのため規定を外れ横目へ願書を出し、組頭が召喚するが応じず、九月十三日綱利は家中への訓戒のため裁きを命じ、十月十日三人の子と共に切腹となる。その後の調査で佐々の借財の多くが緊急に備えた武備と五十両の軍用金であったという(下学老談)。同年舟手を設置(足軽七十人余)し、寛文十一年に造った船十一艘を宮腰に繋ぐ(多くは幕末まで存在)。
同七年火事で被災した領民に付与する建築用の材木について定める。御貸銀のある者へは柱用ではないが「空道具」の松材木を下し、無い者で船を寄せられない所へは渡せないと告げ、木材の大きさを規定する。二月三十日奉公人規定を厳守すべきことを触れる。三月一日前田帯刀が下総佐倉の老中大久保忠朝(綱利と同様に加賀守)から借銀を申し込まれたことを明らかにし、翌年六月謝絶する。十四日綱利が参勤するため準備すると旅費が不足することが明らかとなり、領内から借りることにした。十九日公定された皮多以外が牛馬の皮を扱うことを禁じ、皮の運上について念を押した。二十九日百姓や奉公人が理由無く他国へ出ることを禁じる。
四月一日綱利は江戸城で参勤の礼と銀五百枚・時服五十を献上した。五月十三日近習の上申に口頭ではなく書面を用いることを令す。二十日綱利が上野の徳川家御仏殿に参詣した際に、日天門で牢人が仕官を求めて訴えるが容れず。八月に毎月一度は百姓に諸法令を読み聞かせるよう肝煎等へ達した。十一月七日保科正経に嫁いでいる久万姫からの頼みで、横地三郎右衛門と長田儀兵衛の子を召し出す。八日山方・畠方で租米を納め難い者へ当年限り一石を六十一匁で銀納することを認めた。十一日境関所を避け間道から通ろうとした太兵衛と兵四郎を里子に処す。里子は時期を限った使役刑であり、同九年には松を四十本盗むと三年等と決めている。同年に小松城番を金沢へ移した。
同八年二月二十八日郡中で鉄炮の使用を誰によらず禁じる。五月江戸で家綱が病のため、堀田正俊の勧めで館林藩主でありながら江戸に暮らしていた弟の徳川綱吉(三十五歳)が急ぎ二の丸に入り、七日に将軍後継者となる。その翌日の八日に家綱は心臓発作で薨去した。四十歳であった。綱吉は従二位権大納言から八月二十一日に正二位内大臣兼右近衛大将へと進み、征夷大将軍に就任する。
三、徳川綱吉時代への切替え
綱利は五月十三日上野での家綱の法会が終わるまで藩邸の防火を厳重に令し、領内の漁労や音曲を停止する(二十一日に停止する)。二十日使者の任務にあたる者を諭し、二十八日領内での魚鳥売買を認める。七月十日寺院の新規建立禁止を触れた。十九日家綱の霊牌を金沢の別当寺へ安置するため上野常照院下向を求め、十月七日橋爪門内に寺院の乗り物を入れることも承知する。
七月二十七日に綱利は保科正之の廟へ本年中に太刀と鉄燈籠を寄進することを指示し、九月八日には奉納する燈籠の銘や太刀の箱書が出来(正四位左近衛中将兼加賀守 菅原綱利)、翌年の四月六日に燈籠が立つ。八月十四日かねてより金沢城中で組頭が断じる声が大きいし、これを注意しないのもおかしいと指摘した。
後水尾法皇が八月十九日御崩御され給い、閏八月十四日河北郡黒津神社造営の神事能を延期させる(九月二十一日能を執行)。二十五日綱利が就封の暇を受け、綱吉は大久保加賀守を遣わし、御脇差と銀千枚・時服百・御馬一疋を下す。九月二十二日金沢に着いた綱利は城下火災での警鐘について令し、二十五日年寄勤務に関し規定し、月番は五ツ時登城、それ以外は五ツ半時とする。二十六日江戸から飛脚が来た場合に綱利へ呈する時刻等を定め、通常は暮六ツ時までだが急なら八ツ時以後でもよいとした。二十七日御鷹場や御留場の外で鶴を見つけたら場所を連絡するよう達する。十月四日各村の肝煎から昨年来の規定を守り月読を行っていることが報告される。
不作の年であり、十一月三日改作奉行から百姓への御貸米が求められ、四日知行米収納時に蔵宿等が米の質を選ばないように厳命した。十一月十日死罪判決の出た者の子供に対しての連座規定は先に定めた通り、磔や梟首なら連座で死罪としつつ、家中等名字を名乗れる者には適用するが町人・百姓の子供は助けることを令す。十一日から二十六日まで新川郡と砺波郡で朱染紙のような紅雪(赤雪)が降った。二寸ばかり積もり、五箇山ではこれを雪の半と称してこれ以上の雪は降らない印だと伝わる。この年は里方にも珍しく降ったが、五箇山では雪が二丈ほども降っている。越後高田では人家が二丈ばかり下に見るほどの積雪であったとのこと(菅綱記)。赤雪は立山でも見られ、春先に黄砂が混じっているためや、融雪期にクラミドモナス等が繁茂し起こる現象である。十七日富山や大聖寺を含む他国からの使者や飛脚は城内通行を暮六ツまでとする。二十四日火事に際して足軽へ不法の振る舞いをせず消火に努めるよう令す。十二月八日大雪のため十村等へ百姓扶助を命じた。十一日婚礼や祭礼の時には群衆整理のため町奉行足軽が出動することを令す。二十八日これまで居屋敷を売却した家中に再び屋敷を与えることはしなかったが、三十年経過したら屋敷を下すことにした。
同九(一六八一)年正月十八日百姓が持高を子供に分配する場合は生前に限るとする。二月晦日綱利は能役者春藤勘右衛門の子の萬右衛門を出仕させた。この月に幕府は今更ながら大坂の陣で利常に三万両、伊達に一万五千両を貸与したはずで未返済であると年賦返済を求めてきた。綱利に抗弁できる術はなかった。釈然としないまま江戸へ出立したが、三月二十七日新川郡宮崎村で元御徒の河地九兵衛が拝借銀を認められず扶持を没収されたことは不当であると訴えたが、綱利は即座に追放を命じた。七日に江戸へ着き、十一日参勤の礼を白書院で行い、銀五百枚・時服五十、前田対馬や奥村兵部より八講布二十疋や銀馬代・手綱二十筋を献上した。前田正甫が千五百両の借用を申し入れてくるが、二十日前田対馬は拒絶すべきと議し、正甫が派遣した瀧川図書を呼び断る。五月二十六日八丈島の宇喜多太郎助への物資援助は幕府の承認を受けた。
この頃越後高田では松平光長の嫡子綱賢が延宝二年に卒して以来、後継を巡り家中が分断して対立を深めていた。幕閣では大老酒井忠清が仲裁に当たるがこじれるばかりであり、酒井の辞職後に綱吉はこの年の六月二十二日に裁定を下し関係者を厳罰に処して所領没収、光長は伊予松山へ御預けとなる。綱利は二十八日に牢人となった旧家臣たちが領内に入ってもよいし宿泊も許すと指示し、富山の正甫が高田城受取の任を命ぜられたため、七月に軍用品として柄矢(矢柄)千筋・猩々皮十間・羅紗十間を御使番の荒木善太夫に持たせ贈与した(柄矢は不要と返却される)。領内には騒擾することの無いよう令す。八月一日正甫から無事受け取った旨が報告された。
八日町人が米を買って売却したり、浦方から入れたりできるようにする。二十日町人の分産(破産)で五乃至七歩弁済した場合の残りは用捨し、一・二歩程度しか弁済していなければ処罰すると達した。
九月二十九日辛酉革命に当たるため天和と改元することが発表された。十月二日不作で収納米検査を緩めることを触れる。十一月書簡に記す署名について新たに命じる。光高の時代までは老中へ出す場合も片苗字で松とだけ記していたが、綱利は諸苗字で松平と記すことを指示し、併せて一般の大名へは片苗字に脇へ人々御中と記す。右筆の土師清太夫からは高家に出す際は吉良上野助へは従四位下少将のため諸苗字、大沢右京大夫は同位でも侍従なので片苗字が良いのではないかと提案するが、綱利はこれを容れず高家へは皆同様諸苗字と決めた。十二月二十一日京の角倉閑清遺物を受け取ることにした。同年に領内各駅の馬疋数を報告させる。合計千七百九十七疋、うち小杉新二十疋・佐賀野二十一疋・守山十三疋・下村二十三疋・井波町十四疋・立野二十一疋・中田村二十六疋・埴生町四十一疋・水戸田町十七疋・東岩瀬十六疋・滑川二十疋・三日市二十六疋・浦山二十疋・入膳二十二疋・舟見二十五疋・泊り町三十五疋・魚津十九疋・石動四十疋・氷見十七疋・城端十疋・高岡三十五疋とある。
同二(一六八二)年正月九日江戸で家中へ簡略を旨とすべきを告げ、十六日越後騒動の余波で領内での駄賃を五月まで二割増にする。十七日関所で親に扶養されている子供の持ち物まで区別して見せなくてよいと達した。四月九日江戸の綱利は大老堀田筑前守正俊を招く。二十二日領内郡中で非人が物を強請ったり脇差等を携え乞食する者がいたりするとの報せで、これらを捕らえさせる。五日幕府法度を記した高札を領内要所に掲げる。六月二日大坂へ廻す米の額を議し、八万石程だが少ないほうが良いので詮議次第とする。十八日就封の暇を受け、江戸を発つ。
七月二十八日家中の木下順庵貞幹が幕府に仕えることになり、綱吉に謁した。八月十四日幕府からの命で天下一の文字を書いたり看板等に金銀箔や鍍金の金具を使ったりを禁じた。さらに幕府から駄賃二割増が命ぜられ二十一日に領内に触れた。二十五日加賀・能登・石川郡宛に珍鳥を見つけたら報告するよう達した。
九月四日諸勧進の出家・座頭を村内に入れないよう命じる。二十九日馬廻組を十二隊・小将組六隊(組頭・番頭・横目を各一人)と定め、十一月二十一日表小将を新設し、十二月には四百四十石以下を組外組御番に入れ、次男や三男を加領(料)与力に跡目の際任じた。
二十八日に江戸で白山原竹町追分大円寺内の小家から出た火が燃え広がり、上中下屋敷とも焼失し、御留守居役菊池弥八郎・戸田與一郎が仕切って下知して消火に当たり、姫たちを駒込へ移した。同三年正月五日火災の報が金沢に届くと、六日に綱利は本郷邸の再建を命じ、七日夜に御小将伊東平八郎を江戸へ派遣した。ただし十八日職人や日雇人がみだりに江戸へ赴くことは禁じる(四月十日解除)。本郷邸内の富山藩と大聖寺藩の屋敷も類焼した。ただし大聖寺藩は三月十五日に再建の際には、これまで五千七百五歩だったのを、五千八百八十五歩と風呂屋跡屋敷百十二歩を得て合計五千九百九十七歩に増やしている。
二月一日にこの年の鷲の捕獲は斃牛馬を入れないため止めると触れ、幕府の命で帯刀や衣服の制限を守らせた。三月二十一日以後は正式に江戸の本郷邸を上屋敷、駒込邸を中屋敷、平尾邸を下屋敷、深川は蔵屋敷と称すことにする。同月にオランダ商館のカピタンへ与える前田家世譜を土師清太夫が調筆する。四月二日綱利は金沢を発ち、奥村庸礼を日光に使いさせ、十三日に江戸へ着く。十四日綱吉は阿部豊後守正氏に慰問させ、二十二日横山正房を従え登営し綱吉に拝謁し、太刀目録・銀五百枚・時服五十や家中から八講布二十疋を献じた。御台所(鷹司信子)へも銀百枚と綿百把を進上する。
四月十二日郡方の諸品で一定の買い上げの無い物を金沢町人に扱わせる。十六日これより数年間は道路や橋の修理を百姓自身で行ってもらいたい旨を触れた。五月晦日町人や百姓が道中に刀を持参しないように達す。同月塩の製造や販売に係る者から誓詞を取る。閏五月八日守随手代仁右衛門から秤の製造には慎重に当たってほしいと誓詞を取る。また皮多に皮の製造数量と上納・売却等の処分について報告させる。二十八日無用の職人や牢人が領内に入ることを取り締まらせた。六月八日山漆の実を領外に出すことを禁じ、蠟を製造するため裁許人を任じる。同月に寺院から百姓が請けた地に家を建てることについて、管轄を郡奉行として十村に裁許させる。七月六日能役者の幸藤太郎を伊藤甚右衛門と改めさせ二の丸詰衆百五十俵に任じ、能役者が士列に加わる初めとなる。二十二日林晴常門人春先を儒学者百疋に取り立てた。十月十七日鳥見役の帯刀を禁じる。十一月六日斃牛馬を見つけたら皮多へ伝えるように達す。八日米価が下落したため家中で困窮し、米切手での借銀・買懸銀を許す。同年には領内での木綿栽培を試行し始めた。
四、前田綱紀への改名
同四(一六八四)年正月一日に綱利は改名を告げる。かねてより肥後細川の年齢も同じ細川綱利(従四位下侍従越中守)と同名であることが気になり、その上「利」の字が穀物を刈って収穫する意味と捉えて大名苗字としては良くないのではないか、との疑念を持っていたため林鳳岡に相談していた。そこで候補として挙げられた中より「綱紀」と「綱倫」を残して朱舜水に尋ねた。朱舜水は明の復興を図る鄭成功が徳川家光への援軍要請の使者として派遣された縁で、長崎から徳川光圀の招きで江戸へ移住した学者である。空を嫌って実を重んじ水戸藩以外にも全国の大名や学者に影響を与え、天和二年四月十七日八十三歳で卒す。綱利へは綱紀振粛の意味から綱紀を勧め、これ以降は前田綱紀を名乗る。綱紀は朱舜水と学問の交流を深め、毛抜き・髪分け・鋏・剃刀・耳かき・元結が大陸でどのような物を用いているのか尋ねている。他にも綱紀の関心は多岐にわたり、火薬を調べて越後の油を知る。色の表記法について疑問を持ち正しい青色とは何かを新井白石に尋ねる。さまざまな珍品を城内薪丸の三棟の宝庫に収め、和漢植物を比較し稲生若冲に問いオランダの書物を取り寄せ、実際に芥子一包をオランダから入れて移植してみた。虫の嫌う芸香や甘草等やカボスや仏手柑を大津の屋敷で育てている。内山覚仲を長崎に派遣し、日向で樟脳を調査させた。内山覚順には大陸や朝鮮半島の鳥を調べさせ、林鳳岡にも書状を出し城端で出た石を将軍に献上する御印鑑の緒留にしたいので見てほしい、越中の石は天下第一で次が常州水戸の石、三州には薬種も多く能登には人体の形をした石(こぶり石か)等もあることを付言している。
十六日御扶持人や十村に白銀三枚を与え、郡一番皆済で紬二反を下すことにした。同月には大聖寺の世嗣利直が内記を称し、加賀家中で中村惣右衛門・津田求馬・近藤三郎左衛門・今枝民部など内記の称を持つものに改めさせた。二月一日領内の御扶持人と十村から誓詞を取る。春に寺院が百姓請地に家を構えている実態を調査させ村へ返還させる。二月二十一日に辛酉革命の四年後の甲子革令に当たるため貞享への改元が決まり二十八日に伝達して三月十一日領内に触れた。四月七日就封の暇を受け、綱吉から白銀千枚と時服百、御鷹狩での雁鴨二居・御馬二疋を拝領する。奥村壱岐へも時服五と羽織が下された。十三日領内の陰陽師を調査する。二十一日幕府の要請で以前に徳川家から与えられた判物や領地目録、二十五日には家中への感状を調べて(家康から十一通・秀忠から四通)、いずれも複製を提出する。二十六日綱紀が江戸を発した。
同月に領内の草高を十村組別に調査する。このうち越中関係は次の通り。
砺波郡 福光組二万九千九百八十二石二斗四升 埴生組三万二千百五十三石一斗八升 大西組二万四千五百十八石二斗五升 三清組三万四千六百三十七石三斗七升
金屋本郷組三万五千百七十九石四斗五升 大瀧組二万七百八十四石一斗九升 内嶋組三万千七百三十七石 本保組二万八千三百三十六石五斗七升 祖山組三千五十六石八斗六升 下梨組二千八百七石九斗 今石動町三百九石 城ケ端町二百七十九石
〆二十四万三千七百八十一石一升 内二千六百九十五石一斗九升図り免(不確定高)、外に七斗五升村々にてはね捨高
射水郡 横田組二万九千三百七十九石七斗 島組二万四千六十七石二斗一升 大白石組三万三千三百二十八石四斗三升 下條組二万五千二百三十三石五斗六升 仏生寺組一万四千七百七十五石三斗 加納組一万八千四百六十一石一斗五升 五十里組一万九千九百二十六石七斗六升 氷見町二百六十五石 〆十六万五千四百三十七石一斗一升 内四百九十七石八斗五升図り免 外に一斗四升村々にてはね捨て高
新川郡 宮津組一万九千十三石五斗一升 三日市組一万八千五百五十八石二斗三升 新庄組一万五千八百九十四石八斗 正印組一万六千四百七十八石五斗一升 野袋組一万五千九百十二石 殿村組二万二千七十九石二斗七升 神田組一万六千百八十六石 青出組一万六千三百三十九石 入膳組一万三千六百六十六石 仏生寺組一万三千九百四十一石 文殊寺組一万七千百五石四斗九升 寺町組一万六千九百三十四石四斗三升 黒崎組一万八千三百四十六石四斗一升 〆二十一万八千六百五十三石九斗三升 内千九百石七斗八升図り免
合六十二万七千八百七十二石五升 内五千九十三石八斗二升図り免
付札 残而六十二万二千七百七十八石二斗三升
五月九日に綱紀が金沢へ着き、寺院を参詣する。十日家中頭分は常に肩衣を着け、みだりに提灯や幕等に梅鉢門を用いないことを令す。江戸では同日に利明にも就封の暇を賜い、時服二十と御馬一疋を拝領した。六月八日草履取の三内が赤尾助左衛門に仕える馬捕仁右衛門殺害したことを奥村伊予から聞いて知った綱利は、赤尾に三内を斬罪に処すよう命じる。九日鷹匠の清水伝左衛門が誤って綱紀の鷹を殺してしまったため改易を命じ、大聖寺や富山での仕官も禁じた。二十日には前年平尾の屋敷北方を下された替地として、駒込屋敷の一部を幕府方へ交付した。二十七日金谷屋敷に古筆書物を入れる文庫部屋を作る。二十八日幕府へ提出するため作成中の高辻帳(七月二十七日完成)に倣って郡別に村名・高名・十村名の入った小さい折本を作成する。同日梅鉢や菊菱紋を着けた幕や提灯を禁止する。七月六日十村等が金沢周辺の鷹場について上申する。
後継者を巡って家中が分裂していた陸奥窪田土方伊賀守雄隆の所領一万八千石を二十日幕府は没収し、越後村上へ配流する。これにより能登の土方領も接収された。弟の雄賀や長十郎は旗本として存続を許され、能登の知行地も残った。
※布市の土方領について
前田利家の室・まつは「壬子集録」陰陽師吉田右衛門覚書その他によると、天文十六(一五四七)年七月九日に生まれ、父は信長の御弓頭(出頭人・御咄衆とも)篠原主計(竹阿弥・安阿弥)、母は竹野氏出身で前田利昌(利家の父)室・長齢院の妹である。篠原氏は海東郡沖ノ島村の国人であるが、阿弥と称しているところから時宗か諸芸専門集団であったのだろうか。なお高畠氏(左門吉光が父)の出身で篠原氏に養われた、という説も多い。長齢院以外には織田家臣土方刑部少輔信治に嫁いだ姉がいて、その子が勘兵衛雄久である。やがて信治の没後に太田孫左衛門に再嫁し長知(但馬守、利家に仕え多くの合戦で奮戦し大聖寺城主、利長の命を受けた横山長知に討たれる)を産んだ。孫左衛門没後さらに嫁して武田宮内(佐々成政の肥後移封後に新川郡の升形山城を守備したという)を産んだとも伝わる(「袂草」)。土方氏は源親治の末とされる。雄久の父母については別説がある。土方俊治の娘婿に信治が入り雄久と長知が生まれ、信治の姉妹が嫁いだ太田吉定に男子がいないため長知が養子に入り、また俊治のもう一人の娘がまつで前田利家と結ばれたというもの、土方信治が織田家臣の前野長兵衛娘に産ませた子が雄久、等であるが、いずれも史料上の根拠は乏しい。
雄久は天文二十二(一五五三)年に生まれ、彦三郎や勘兵衛を称す。父の信治(天文五年~弘治二年、彦三郎・刑部少輔)は織田信長に仕え、二十一歳の弘治二年四月二十日に美濃の斎藤道三が義龍と長良川で戦った際の道三救援に従軍して討たれたという(八月二十四日稲生の合戦説もある)。織田信長に仕えて永禄十二(一五六九)年十月、信長次男の信雄が北畠氏の養子になったことから附属し、天正四(一五七六)年十一月伊勢国田丸城で長野具藤等を討ち、北畠氏粛清と伊賀一揆鎮定に努めた。同十一(一五八三)年従五位下に叙され、この頃には信雄の一字を貰い雄久と名乗る(本来は「かつひさ」と読むべきだが「をひさ」と記されている書状がある)。伊勢国で薦野を知行していた(賤ヶ岳戦後ともいう)。翌同十二年三月星崎城主で信雄の家老であった岡田重孝を羽柴秀吉への内通を疑った信雄の命で討つ。直後に開始された小牧・長久手の戦いでは秀吉との和睦に奔走した功で、尾張国犬山で四万五千石を付与されたという(「分限帳」には十六か所・九千貫文以上が計上されている)。同十三年十一月と翌年九月に織田長益等と共に徳川家康へ上洛を勧め、同十八年小田原の陣で雄久は夜襲を仕掛けてきた北条氏房と戦い撃退した。戦後に織田信雄は家康の関東移封に伴い空いた旧領への移動を拒んで改易され、信雄は秀吉のもとに一万石で仕えることになった。それでも朝鮮出兵では出家し常真と号していた信雄に随い肥前国名護屋に滞在し、文禄三(一五九四)年に伏見城普請二万二千石を分担し、慶長元(一五九六)年七月近江栗太郡で二千石が加増される。
前田利家と雄久はまつを介して縁戚であり、親しい関係であった。利家には姉三人と妹一人がいる。長姉は奥村宗親の後妻として永福を産む。次姉は加藤家勝(奥村氏から養子)の妻となり、三姉は千葉氏末の三河出身で尾張寺西村に転じた寺西九兵衛松秀(信長に仕えた後に利家に兄石見の子秀則や半右衛門と仕える)に嫁した(嫡男の寺西与一(市)郎秀長は天正十八年の奥州仕置に従い菅野台で没)。更に雄久の姉が嫁いだ先は寺西治右衛門である。治右衛門は信長を怒らせ討たれるところを能登に逃れ、勘兵衛が信長を宥めて利家の家臣にしようとしたが、治右衛門が拒んで剃髪し宗興と号したという(可観小説)。なお寺西氏については紺屋に転じた末裔の方によると別の伝えがある。参考にウエブ記載をそのまま記す。
寺西治兵衛秀則 寺西紺屋三郎右衛門の租(ママ)、寺西主馬伊安の義父。尾張国荒子の出身。本国は下総の国、千葉石見守。元亀二年(一五七一) 信長の命により、江州(滋賀県南部)石部城主となる。秀則の弟 清左衛門之政は、浅野長政に仕え、子孫は安芸広島藩士となったが、本能寺の変(一五八二)の後、秀則は前田右馬(前田利家の伯父)の娘を娶り、利家の妹を妻とした弟 寺西九兵衛と共に、 前田利家(高徳公)に仕える(若狭を含め五千石)。秀則は、秀吉認可の茶人でもあり、号を宗與と称した。娘の婿養子として寺西主馬伊安を迎える。慶長十六年(一六一一)没
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同四年閏三月三日に前田利家が薨去、利長はすでに父に代わって大老であったが、翌日豊臣家臣団による石田三成襲撃事件が起き、これを収めた徳川家康の実力が誰の目にもはっきりしてきた。利長は大坂に留まり、利家臨終の日にも大老として池田備後守宛領知宛行状にも連署している(徳川家康・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元・前田利長の序列)。神谷守孝に命じて高野山へ利家の碑を建てたが、結局家康の勧めで八月二十八日に金沢へ戻る(利家の遺言では三年間秀頼の傍を離れないことになっていた)。だが利長を中心に増田長盛・浅野長政、そして土方雄久が家康討伐を企んでいるとの報に加賀征伐が現実化(小松の丹羽長重を先鋒)しつつあった(増田長盛が漏らしたとも)。宇喜多秀家から知らされた利長は秀頼の支持を得られない現下では家康に屈服するほかなく、九月に家康に詫びを入れ、十二月権中納言を辞し、翌年正月に秀忠から上洛を促され、三月横山長知を派遣し弁明に努め、五月母芳春院を江戸へ置き、利長自身の隠居及び利光と将軍家との縁組を約して危機を脱した(家康の返書を持った細川忠興が二十七日に金沢に来る)。この事件で雄久は大野治長と常陸国の佐竹義宣に預けられた。翌同五(一六〇〇)年に会津討伐で許され家康と秀忠に仕える。関が原での東西両軍の衝突に際し家康は雄久を利長のもとに派遣し、九月雄久は金沢で利長の南進を促した。この時利長の弟の利政は小松出兵から帰ると能登に引きこもり出陣を拒んでいたため、雄久は能登で説得を試みるがむなしく加賀へ戻ることになる。だが同年家康は雄久の功に報いるとして一万石を与える約束をした(ただし「天寛日記」には別説が記載)。
土方雄久が付与された新川郡は佐々成政の所領であったところで、金銀の産出地であり秀吉が蔵入地としていた。利家が預かり利長の代で領地に組み込んでいたとはいえ帰属のあいまいな場所である。この時に利長が雄久のため新川郡は豊臣家からの預かり地であるので、この中から上田の場所を分与する旨を家康に返答したとされる。ただし将軍宣下前の家康が豊臣方に与する可能性のある利長監視のために雄久を送り込んだ可能性もある。二年後の同七年正月に雄久は河内守に任ぜられた。
陀羅尼寺村には殿様屋敷、殿様清水の字名があり、矢竹が茂っている。ここに土方氏の陣所があったと思われる。土方領は熊野川辺りまでの村々を含み、布市を北端に東猪谷まで約三十㎞の細長い領地であった。石高一万石といっても近世の開発前であり(正保頃の陀羅尼村三百五十七石と布市村二千百二石・寛政頃の小杉村八百六十七石・享保頃の石田村六百九十九石・元禄頃の金屋村二百七十九石等)、万石には達していないと思われるので、格としての一万石ということであったのであろう。
布市を雄久は二名の代官で支配したという。これには中地山城にいた河上富信の子孫が帰農していたのを登用したと伝わる。また興国寺に土地を寄進し自身も毘沙門堂にこもったというが、雄久が布市に来たという証拠はない。前田利長は同十(一六〇五)年秋に富山城修復のため飛騨から赤板五百間(材木)を求め神通川に流して運ぶことを企図し、その助成を猪谷の土方領へも指示しているところから実質的に利長が支配していたようである。また大坂では富山米を土方米とよんでいたともいう(「富山郡方雑記」)。
同九年に雄久は下総田子で五千石を加増され、領地支配の中心を移した。同十年六月に利長は弟の利光(利常)に譲り、富山城で新川郡二十二万石を養老領とする。その前年九月に秀忠から前田家の加賀・能登・越中支配が確認されていた。同十一年(「小山氏雑記」には同十三年になっているが誤りか)利長から能登への替地を提議され、羽咋十八か村・鹿島二十一か村・鳳至二十二か村・珠洲一か村の六十二か村・実高一万三千石に移る。鷹狩をしていた利長が土方領を容易に通行できないことに気づいて領地を付与したことに後悔した、鷹狩中の利長が道の悪さに落馬し立腹して郡奉行を呼び出し成敗しようとしたら土方領であることを告げられ土方代官を召し出すよう命じたら村廻りで不在であった、話を聞いた土方が代官に善処を申し付けると耳が遠いようで伝わらず、利長へ所替えを望み国端でも構わないとも言うので利長も満足して能登で三千石を増やして渡した、等という伝説があるが確証のある話ではない。土方領の存在が新開の妨げになっていたことも考えられる(「三州志」)。雄久は徳川秀忠と親しく接し、外桜田の屋敷に秀忠はしばしば立ち寄ったという。同十三年五十六歳に卒。タバコの害とも伝わる。
この後加賀藩領に編入された布市に火葬場が置かれる(慶安年移転)。万治三(一六六〇)年富山藩領になって布市は二十人の給人地に指定され、松井九郎左衛門(家が龍宝寺となる)が月岡野を開発した。石田・布市・金屋・陀羅尼寺の土方領跡には富山城下を整備していた陰陽師十九軒が住み(現在の石田・布市・南金屋・上栄)、桃井末裔を称して富山藩士との縁戚関係を持ち、毘沙門堂を天社冥道神社と改め持宮とする。正月に幸若舞を舞い、満浄寺の毘沙門天像を借りて領内村々を回っていた。
五、江戸城中での能の興行
八月二十八日着到奉行を廃止するが、この日に前から淀川工事で対立していた堀田正俊と若年寄稲葉正休(堀田の従叔父)が江戸城中で争い、稲葉は堀田を刺してしまう。稲葉はその場にいた老中大久保忠朝・阿部正武・戸田忠昌に刺殺され、堀田は重体のまま屋敷に戻って卒す。この事件は前田正甫により綱紀に伝えられている。
九月二十一日養女の恭姫を長時連に嫁すことを決め二十九日に結納を行う。二十五日所蔵唐書の目録編纂を五十川剛伯・小瀬順理・室順祥・中泉六右衛門に命じた。十月十八日家中一季居奉公人は三月五日に召抱え給銀を一時に渡していたが、春分四月十日(正徳年以後は七月)と冬分十月から十二月までの二度に分割して渡すことにした。十一月五日梅鉢紋使用についての基準を確認させる。七日不作に対処するため収納米検査を緩やかにすることを命じた。十一日田地を捨てた百姓の年貢米や小物成等の補填について三割を請人・二割を十村・三割を村中・二割を近村の村組合五ケ村組が行うことを確認する。十五日綱吉から拝領した鶴を家中に饗して能を催した。二十一日綱吉から朱印状が与えられる。この年に鰤網新統の定置について定め、「古統よりかねの五尺之尋、三百尋間を置」「一切古統並より少茂沖江為出申間敷」「沖はいの百五十尋より長く為致申間敷」として鱈も同様(はいが無いのでその定めは適用しない)とした(翌年三月十三日に再度確認)。この年に幕府では綱吉が服忌令(ぶっきりょう)を制定し服喪期間(親なら五十日間出仕停止等)を定めて血や死を穢れと位置づけ、武士の在り方を変容させる(同三年改訂)。
同二(一六八五)年正月二十一日五箇山で猪や猿が作物を荒らしたため、鉄砲の使用が許される。二月一日恭姫の婚儀に際し路上で観覧することを禁じた。十五日家中から利家命日に拝謁を受ける日を三月三日(実際の命日は閏三月三日)から三月一日に変更する。
後西上皇御崩御が二十二日との報を受け、直ちに京へ御先足軽頭茨城伝右衛門長重を派し奉悼の意を表す。三月一日本郷邸再建の普請奉行等を任じる。十六日恭姫が長時連に嫁ぎ、二十三日化粧田千石と金三百両を与えた。十九日諸士に料理を振舞う。二十日郡奉行が各郡へ綱紀発駕前に道を掃除し当日は道番人が出て掃くようなことをしないよう達した。綱紀が江戸へ向かい、二十七日魚津へ着いた際、組外高橋吉左衛門・高畠與兵衛・御徒高山甚太夫は綱紀が馬で通過中であることを見誤り平伏せず、三人とも四月一日に閉門となる。
四月三日大聖寺の前田利明が登営し参勤の礼を行い、綿百把・銀五十枚を献上する。綱紀は九日に参勤の礼を行った。晦日小将横目に裃を常時着用するよう命じる。五月七日座頭松山了仙が勾当に列せられたため御礼の拝謁を許す。九日本郷邸の仮屋を解体して大門の傍らに移築した。十日家中に帷子着用は必要ないと令す。十四日申下刻に中屋敷板橋口御門内に乱れ髪で駆け込んで来た者がいた。門番が追掛け捕らえると水野隼人正忠直(父方の祖母は前田利家の養女)の上屋敷小者と分かり、相役を殺害したため今朝忍び出て板橋まで出たが追手が迫ったため田の中に隠れ、今ここの屋敷に走り込んだと白状、白山神社前で追放した。なお白山神社は元和頃白山から江戸に勧請され(伝説では天暦年)数度移転し、館林藩との関係が深く綱吉や生母の桂昌院が信仰していた(息女の鶴姫の産土)。かつて桂昌院は家光養女時代の大姫(綱紀生母)に付いていたこともあると伝もある。十五日綱紀は本郷邸の仮屋に入り、翌日家中の長屋割を定めた。
六月二十七日伊豆の御代官伊那兵右衛門の子息兵蔵から書状で、八丈島の宇喜多氏へ贈った物品の領収書が届いているとの連絡を受ける。七月十九日老臣宛の書簡に加賀とだけ書いていたのを加賀守と改める。二十九日家中が七夕や八朔で白帷子を着用していたのを無用と令した。八月十一日田中一閑宗得(二十人扶持・金五十両)に命じて日本書紀の神代巻を講義させ、家中の陪聴を許した(一閑の養子平丞を十二月二十七日に二十人扶持で出仕させる)。二十七日下総高城氏に連なる高城権之助と称す牢人が本郷邸に来て、老母がいるが勝手困難のため御扶持でも白銀でも拝領したいと願うが拒絶する。
幕府が馬の筋繊維を切って延ばし見栄えをよくする(「拵馬」)といった行為を禁じていることを九月十八日に確認したため、領内でもこれを触れる。二十二日綱紀は木下順庵を召して易経を講義させた。十一月九日了智という真宗僧侶が駒込板橋口御門に来て訴状を持参するが、一昨年にも安中・松井田間で綱紀の籠先に訴状を提出した僧であり、綱紀は受け取りを拒絶した。
二十八日本郷邸で柱立の儀を執行する。南に大色代柱一本に弓矢等の飾りを付け洗米や御酒の樽を飾って棟梁の山上伊左衛門が拝み、樽の酒を長柄の銚子に移し三方の土器に上げた。北の御居間小書院でも同じように柱を立て棟梁の黒田甚七が拝んだ。参加者四千余人・赤飯二十石に酒十石を要した。棟上の儀は十二月十九日に執り行い屋根で御酒を上げ棟梁の田辺治兵衛が拝仕、餅五百八十をまき御台所続の間で御酒を上げ御規式を終えた。
同三年正月二十七日切米は俵数で数えることを達す。二月一日駒込邸で能を催し、御小将横目以上に一汁三菜を振舞った。十三日平尾邸で猪鹿狩を行う。三月九日に綱吉から拝領した馬を保科肥後守正容・同兵部少輔・溝口帯刀・小堀大和守・松平左門・土岐格庵を招いて披露する。立聞(轡頭部の輪)は萌黄・手綱は紫に染めた裸馬で萩原久右衛門が乗りこなす。その後に能を催し接待した。二十六日には織田伊豆守・同信濃守・同対馬守・同式部・同内匠・松浦肥前守・同織部・津軽越中守・同出羽守・加藤遠江守・最上刑部・同右京・金森左京・加藤平八を招いて披露し、能を催した。
閏三月十一日宝生九郎を招いて仕舞を観覧し、小書院二之間で料理を振舞う。十五日登城すると牧野備後守から二十一日に予定の江戸城での能に招待を受けた。二十一日は朝六ツ半時に登営し綱吉の能を拝見すると、次回は綱紀が演じるよう命があった。二十七日能拝見の御礼に金入織物二十巻と硯箱料紙箱を献上し、翌日も登城すると甲府の徳川綱豊(綱吉の甥)と御三家に交じって綱紀にも四月三日に能を舞うようにとの仰せであった。その四月三日が来て登営すると辰の刻に綱吉が御成り、巳の刻に能が始まった。羽衣を紀伊世嗣徳川綱教が演じた後に綱紀は桜川を披露する。続いて江口を尾張の徳川光友、春日龍神を甲府の徳川綱豊、龍田を紀伊の徳川光貞、海人を水戸の徳川光圀、杜若を尾張世嗣徳川綱誠、小鍛冶を水戸世嗣徳川綱條が務めた。申の刻に綱吉が退出し、甲府と御三家が帰った後で綱紀は老中より接待を受ける。十二日登営し就封の暇を受け、翌日浅野綱長の招きで能があり、正甫が江戸に着いたので駒込邸で会う。綱紀は小堀備中守正之(小堀政一の子)から茶を学び、割烹についても特に卵豆腐のふわふわとした作り方には一家言持っていたほどである。
利明が佐分儀兵衛を前田佐渡孝貞に使いさせ、本郷の大聖寺藩邸を三百貫目で作りたく百貫目は調達できるが残りは加賀藩出入の町人へ頼んでみてほしいとのこと。孝貞は十七日に綱紀の意向を伺うが何も答えが無く、二十日利明から作事料が増え二千貫目不足のため深江屋庄兵衛に借りたいのだが綱紀に言いにくいので孝貞からよろしく願いたいとのことであった。
六、行政刷新
二十二日馬が運搬する荷物の重量は幕府の規定通りにするよう触れる。二十七日綱紀が帰国の途に就くことを告げ、五月四日に出立した。同日浦方で難破した船や船具を拾って持主が六か月現れない場合は七か月目に拾主に下すと令す。九日幕府による服忌令の改定を布達した。二十一日殿様の命は厳守すべきことを令す。二十八日金沢城に毎月二十八日登城する際は常服で構わないことを告げる。これは江戸城では麻裃で二十八日に登城するため模した慣例で、徳川家光は止めるつもりであったが、東叡山南光坊から二十八とは天文占星術で用いられる数字であることを説明され思いとどまったという。金沢でも麻裃で登城していたがこれを改訂した。六月四日郡中の失効した御印物を回収する。五日綱紀に供する者は綱紀が御馬から馬から降りたときは笠を脱ぎ、しばらくしてから着用して供することとする。十日領内の鍛冶について調査を命じた。二十八日儒者に束髪を許す。同月に職階(延宝五年から整備)を記した『群臣階次』を作成した(元禄三年から適用)。
二十六日家綱の御法会で一柳直興が赦免される。他にも陸奥二本松の丹羽長次が預かっている荒川定昭(旗本、駿府勤番の時に部下の不正を究明しなかった罪)とその子で豊前中津の小笠原長胤が預かっている荒川右近定恒・左門定由・新五郎正容、若狭小浜の酒井忠囿(ただその)が預かっている稲垣昭友(旗本)とその子平八郎周為も赦された。七月一日上野での御法事で日光御門跡からの御願いもあり、一柳主従は加賀藩領内に留まってよいとの沙汰があり、十一日綱紀はこれを謝すため御馬廻横山牛之助を江戸に派す(八月五日に金沢帰着)。
十七日家中遺言の形式を定めた。八月一日前田利明が江戸を発す。同年に正甫の子で八歳の主膳(利興)と六歳の右近(利由)も三輪弥市右衛門が供をして江戸に上っている。主膳は平生御静かで、弟の右近が主膳の物を取ろうとも、それが秘蔵物であっても、やれやれとの仰せであった。御右筆樫尾茂左衛門の御手本で字を練習し道中では御乗物の中で四書を読んでいた。山下で乗物を出て歩く際に御笠を召すよう言われると鬱陶しい、日焼けして黒くなってしまうと諫められると、男は色の黒いほうが良いのだと言う。御鎗の鞘が落ちると替わりは申し付けずに鞘の名を記せ、弥市右衛門の不心得だと叱る。姫川で御長刀と御腰物を先に向こう岸へ渡したところ呼び戻せとの仰せ、もう渡してしまったと申し上げれば珍しいことだ、渡った物が帰れないことがあるのか、との仰せ。仕方ないので戻した。その他奇妙な行動をとるところがあった若君である(「富永数馬覚書」)。
二日伊予小松一柳直治(直興とは祖父が同じ)の使者棚橋忠兵衛が金沢城を訪れ、直興のことを謝して御太刀馬代銀一枚等を呈した。七日一柳直興に岡田十左衛門と井上久太郎を遣わし、江戸で老中に直興が親戚と連絡を取り合ってもよいとの回答を得たと伝えた。十五日綱紀は蓮池亭で老臣に二汁五菜で饗応した。十月二日不作のため収納米検査を緩めるよう令し、十一月七日病気療養中の奥村庸礼を訪ねて蜜柑を下す。
十三日老臣の職名を次のように定めた。
大年寄・大老 本多安房政長 前田佐渡孝貞 奥村壱岐庸礼 奥村伊予時成
人持組・七手頭 前田備後直作 長九郎左衛門尚連 横山左衛門英盛
年寄役・家老 横山備後正房 津田玄蕃正忠 奥村因幡悳輝
若年寄 前田対馬孝行 前田備後直親 多賀新左衛門直方
二十六日八ツ半時に一柳直興が金沢城に御礼のため登城、すでに直興は目が不自由になっていて里見七左衛門が手を引き、小書院孔雀の杉戸際で綱紀に謁した。御太刀馬代を進上し対談、御料理・御盃を振舞い、御囃子の高砂・江口・猩々が演じられた。綱紀は直興家臣の高嶺十郎左衛門に来国光中脇差代金一枚、崎田伊織へ生田直盛小脇差代金三枚、斎藤主税へ肥前雲重小脇差代金三枚を下す。
二十九日家中跡目相続の際に服紗小袖等服装その他を定め、十二月八日由緒ある百姓に代々の名を許す。十日幕府から大奥女中を預ける命があり、江戸城大奥で御錠口御番を疎かにしていた三人(ゑん・はん・ふり)のうち、ふりを受け取り家中の原三郎左衛門の屋敷に幽閉した。
同四年正月四日巳の下刻に一柳直興が金沢城を訪れ白書院で綱紀に謁した。かねてより綱紀は老中へ直興の宥免を申請し、輪王寺宮の周旋も仰ぎ、前年には一柳直治を説いて請願させ、自身も牧野佐渡守を通じて願っていた。奏者役永原権太夫孝好が伴い御盃や御料理二汁七菜を振舞い、三人の家来へも一汁五菜の御料理を御使者の間で出した。二月二日江戸や他国に滞在する家中の一季居奉公人出替は御定め通りとし、十四日給銀も春と暮に分けて給すことを令す。十九日幕府から病気の家畜でもまだ死んでいないなら捨てないようにとの命を触れる。二十七日諸士与力の知行に対する平均収納率を決め、加賀では三ツ六歩・越中と能登では四ツ一歩、ただし与力知では一歩が寄親の収納になるため加賀で三ツ五歩・越中と能登で四ツとする。この外には僧侶姿の内医者・茶堂並や徒者以下・町人・猿楽等は三ツ五歩と四ツ、新番小頭や三十人頭は三ツ六歩と四ツ一歩、徒小頭・定番徒小頭・算用者小頭は三ツ五歩と四ツと規定した。辞令は御折紙を以て御印物(花押)で下されていたのを、三月十五日に物頭以上の辞令は判物、番頭以下の辞令と一般の役料に関して印物(印判)にする。十九日細工奉行と坊主頭を設けた。
二十三日大奥女中ふりの取り扱いについて、綱紀は前田佐渡孝貞に原三郎左衛門の屋敷内や庭等に出て構わないので座敷牢のようにはしないことを指示した。二十六日側室の皆が金沢で豊姫を出産する。翌日綱紀は前田孝貞の屋敷を訪れ、豊姫の養育を託す等談じ合う。二十九日明日江戸へ出発するため、留守中については本多安房・前田佐渡・奥村伊予を召出して託す。奥村壱岐も回復し次第と告げ、特に城中のことは前田佐渡に任せる。近習の御用を命ぜられた者から出されていた伺に回答し、音信贈答は吉凶共に不要であると断じた。
七、生類憐みの令と能外交
主上(東山天皇)が三月二十一日に、御父君(霊元天皇)御譲位で践祚され給う。四月一日に綱紀は金沢を発ち十一日江戸へ着く。翌日綱吉は阿部豊後守を慰問の使者として派し、十四日綱紀が登営すると懇談した。原三郎左衛門から預かったふりの世話をするため遠慮を申し出ていたが、それは必要なく出仕せず世話をするよう十六日に命がある。二十五日幕府からの命で捨子の養育、質地取や田畑売買も停止と並び、野良犬や鳥等全ての生類を慈悲の心を基といたし憐れむことを触れた。生類憐みの令である。
五月三日江戸城二の丸で綱紀は御三家や甲府綱豊と共に能に招かれ、綱吉は八番中四番を自身で舞った。十三日正甫が富山へ戻る途中に加賀藩邸へ寄り、三汁十菜の御料理を振舞われた。十九日に保科正経(天和元年卒)に嫁ぎ仙渓院となった久万姫(利常女)が帰国するため、本郷邸で能を催し慰めた。二十一日江戸城で能を舞うことになった綱紀は卯の刻に登城し梅が枝を演じる。水戸は殺生石、尾張は乱を舞った。
二十二日大小将辻弥三郎重次の若党上田豊佐と小者が池上参詣の帰りに道を誤り西の丸坂下御門内に入り込んでしまい、徘徊した末に奥蓮池の御門番所で誰何され町奉行に渡される。本郷邸に移され禁牢、弥三郎は逼塞、幕府でも紅葉山下門を警備する先手頭神谷與七郎清房所属の同心七人を追放、三人を遠慮に処した。
六月八日綱紀は宝生九郎の勧進能を支援するため、小判で二百両が金子二十枚と浴衣等を渡した。この日奥村庸礼が六十一歳で卒す。十日綱吉は綱紀を御三家や加賀生まれの織田山城守長頼と共に江戸城へ招いて能で饗応した。七月二十二日から宝生九郎の勧進能が開始され、家中も観覧し綱紀も二十六日に観た。
八月二十八日幕府へ宗門改帳を提出するため家中親族の調査を命じる。九月十三日綱紀が本郷邸へ移り、十六日に諸士へ二十日まで裃着用を達し、二十六日邸内での小屋札を整備した。二十七日御馬廻・出銀奉行林一郎右衛門(市郎右衛門)が銀二十一貫八百三十三匁の公金中九百目を鉛に替え大豆板丁銀の形で詰めていたことが判明し、伴八矢へ預けられた後十二月十日刎首に処された。
十月九日馬の尾が傷つくことで馬自体の健康を害しかねないことからこれまでは尾先を焼いていたのだが、幕府が禁じている邪魔な牛馬尾を切り取る行為と間違われかねないとし、これからは禁止することにした。二十二日本郷邸各門の名前を定めた。二十九日閉門・逼塞・遠慮の区別を明確にし、閉門は御知行や御扶持方等を取り上げない、逼塞は御知行こそ取り上げる(遅れて納められた前年の知行米はそのまま渡す)が御扶持方等はそのまま、遠慮は御知行・御扶持方等の別無く取り上げるとした。同月に新川郡三日市村紺屋次左衛門の弟弥次兵衛が関所通行切手を偽り詮索の際にも抵抗し二年間の里子となる。また御算用者吉田八左衛門が材木を盗み謀書謀判の罪で刎首に処された。
十一月六日と九日に綱紀は本郷邸で保科正容等の旗本諸大名を招いて能を催した。十二月四日この年も不作のため、石川郡・能美郡・加賀郡で収納米の検査を緩めるよう達した。晦日に年頭の諸作法を指示した。また同年には庶民の奢侈を戒め、能登の幕府領戸数人口を調べた(六十ヶ村・二千二百四十一軒・一万四千百九十人・牛馬千二百九十二疋・寺社七軒七十五人)。同年は風損が酷く、領内で引免がある。
同五(一六八八)年正月七日引免による家中の困窮を救うため蔵米から支給した。十八日捨馬を禁止する幕府の命令を高札で触れる。二月一日家中で逼塞が命じられても親類に遠慮が下される必要は無いことを告げる。三月九日領国内で牢人所有の鉄炮を調査させた。十七日家中へ理由も無いのに宗旨を改めたり旦那寺を変えたりすることを禁じる。同月に非人小屋に刀鍛冶の清光父子三人が収容され一日七合五勺ずつ配当し、脇差二腰を発注したところ出来が良かったとの報告がある。四月十三日正甫が大宮で昼休みを取ってから江戸へ入り、綱紀は御使番前田兵左衛門長次を遣わし申の刻上屋敷に招く。正甫が料理を断ったので出さなかった。二十八日に綱紀へ暇が与えられ、二十九日登営し辞見した際には袷百・御鷹二居・御馬一疋を賜い、供をした奥村伊予へ袷五と羽織、津田玄蕃へ袷三と羽織が下された。綱紀は江戸をすぐには発たず、五月に郡中の百姓所持鉄炮を調査させ、六月二日御台所から御単帷子三と重肴一種を拝受し、四日帰国の途に就いた。途中の十一日越後能生で利家の書を見て右筆の土師小右衛門に写させる。これは昔利家が草津に入湯の後に上がって桜を観覧し宿の五代前大嶋九右衛門に下したものと言う。綱紀は宿の七九郎・九右衛門父子を呼んで尋ねたが年代までは分からなかった。さらに今も苗字を大嶋と名乗っているのか尋ねたら今は村田と称している。かつて九右衛門が江州牢人の時に村田といい上杉景勝に仕官しようと直江山城守兼続に申し入れ越後へやってきて、そこの宿が大嶋といった。九右衛門は妻子を残して岩崎で討死し、子供を大嶋家の婿養子にしてから改名した、等を縷々語ったのを聴く。
六月十五日に金沢へ着き、十六日金沢城玉泉院丸の番所を撤去させる。利明は大聖寺から金沢の一柳直興に十五日蠣一折を贈る。二十一日鉄炮使用について植木の鳥を撃つことをしてはならないと諭す。二十二日綱紀が足軽番所前を通行する際に番所勤務の者は刀を差さずに蹲踞すればよいとした。二十三日大聖寺を加賀藩では大正持と記し、関所通り切手を口留通り切手と称すことにした。二十四日千宗室に玉泉院丸の築庭を依頼する。二十六日郡奉行から行路で病人がいたら篤く介抱するよう触れる。七月一日利明は一柳へ鯖三十刺を贈り、綱紀からも使番井上三太夫を派して熟瓜一箱と箱肴一種を贈った。六日火事で被災した百姓へ与える松材について帳簿に記す方法を吟味するよう達し、同月に村々の肝煎へ組下百姓の家数等を調査させた。八月六日綱紀は祖先霊前に越中の新米を供える(八日には梨一箱)。八日鷹匠や徒で同姓者を養子にすることに遠慮はいらないと達した。徒組等の進退は若年寄まで伺を出すよう令す。九月十一日玉泉院丸にある十間の厩を壊して亭や露地・花壇を築き、二十四日玉泉院丸や金谷邸の普請に携わった者を賞した。二十五日馬市から綱紀が使う三歳の馬五匹を購入する。
八、勝次郎の誕生
主上御即位に付き、九月三十日元禄と改元される。十月七日綱紀は藁一把や一束の量に疑問を持ち改作奉行に調べさせると、田井村次郎吉・田嶋村新右衛門・寺井村武兵衛から、石川郡・加賀郡・能美郡では藁一把を里方では幾束にしても一掴みであり山方では二掴みのこと、十二把を一束とするが昔からそうなので理由は分からない、との回答があった。十月十八日改元が領内に告げられ、江戸へ御祝儀のため澤田五郎左衛門政氏を二十一日に発たせた(十一月一日江戸着)。十九日与力石原善左衛門の下人六助が欠落したため、里子二年の所三年に処すことを命じた。十一月六日郡中で鉄炮を所持する者の用途を調べさせる。この日豊姫の病が癒えたので祝賀の能を催し、豊姫と恭姫に御料理を振舞った。同月キリシタン宗徒を告発する者へは幕府からの賞与以外に、バテレン訴人へ銀三百枚・イルマン訴人やキリシタンに戻った者の訴人へ二百枚・同宿や宗門の訴人へ五十枚を別に渡すことを触れる。十二月二十日御即位の図が京から届く。以前から京の地下公家中原職俊・職資(平田内匠)父子を綱紀が雇って編纂を依頼していた。二十八日綱吉から寒気見舞の奉書が届く。同年城内に細工所を設置した(前年に細工奉行三人を任命)。
同二(一六八九)年正月二十八日商人等に仲買の奥書が無い米を買い入れることを禁じる。閏正月二十一日諸士以外の鉄炮諸事を戒めた。江戸ではこの日に側室の町が良姫を産む(二月一日金沢で告知)。二月二十二日金沢でも側室の皆が敬姫を産んだ。三月三日綱紀は十村の職が世襲ではないことを告げる。二十六日手跡・彫物に優れた後藤演乗に十人扶持を加える。二十七日領内や富山・大聖寺でキリシタン調査を行った報告を閲覧する。
綱紀は二十九日江戸へ向かい出立し四月九日に着くと、十二日登営し綱吉に謁す。同日に側室の美須が横山筑後正武の屋敷で男子を産む。前田佐渡孝貞が久丸と名付けるが、五月十日に美須が卒、十九日には三池伝太作の刀を久丸の守刀にしたが、六月二日に夭折してしまう。能登と越中各地では洪水が発生し、五月十日には越中領内で六十六軒と橋四十三か所が流失し、御蔵に水が入って米が濡れ、川除用水御普請所の大半が損壊する。二十八日十村等から鍬米徴収の慣例について、村々は鍬数を決めて十五歳から六十歳の男が鍬七日間出て諸事御普請をすること、十村の給米を以前は村の家数に応じて給付していたのを元和三年から鍬数一挺に付き二升を給されていることが報告された。
七月十六日綱紀は駒込邸で庭園を見て、八月七日五十川剛伯・小瀬又四郎・室新助等に命じ、江戸湯島の聖堂に釋菜の用具として銅爵三箇・如意一柄・燭台二台を贈った。九日江戸城中での綱紀の序列が御三家に次ぐものとされ、五節には白木書院での拝謁が許されることになった。九月五日愛本橋を修復しようとしていたところ焼け落ちてしまい、再建を命じた。二十六日江戸城で能を拝見し、綱吉から八丈島三十反を賜る。二十八日登営して謁し、牧野備後守から今度は綱紀が舞う番であると告げられる。十月六日江戸城での席次が進められたことを祝し、保科正容等を招いて能を催した。二十八日登営し仕舞を演じる。同日能登の旧土方領下村一万石に鳥居忠英(父の信濃高遠鳥居忠則卒後に継承を認められず一旦改易)を封じた。
同三年正月四十八歳になった綱紀が七日に七種祝儀で初登営する。
※『公武行事歳時記』「はしがき」及び「人日」の項より 窪寺紘一
天正十八年八月朔日に徳川家康が江戸城に入城したことをもって、江戸幕府は八月朔日の八朔を公式の式日とするとともに、宮中の五節会に対応させて人日・上巳・端午・七夕・重陽(じんじつ じょうし たんご しちせき ちょうよう)を五節供に制定した。このことから、七草節供は全国的に行われるようになった。 この日諸侯は江戸城に登城し、貴賤七草(ななくさ)の粥を祝食した。
二月二十二日大奥から預かっていた女中ふりが赦免された。三月十六日金沢が大火、引き続き二十四日にも焼ける。二十九日にこの報が江戸へ着き、四月十日幕府へも報告した。四日金沢観音院と十五日石川郡大野湊神社神事能の番数を減らす。二十五日綱吉から明日に自ら能を舞うので観覧するよう命があり、翌日登城し拝見し狩野正信の屏風を賜った。二十七日御礼登城すると下馬先で水戸の世嗣徳川綱條と出会ったので対談する。二十九日就封の暇を受け、五月一日登営し辞見すると、御馬二疋・御鷹二居を拝領した。十日綱吉から拝領した屏風を披露し、広島藩隠居浅野光晟(室は利常女)・その孫で広島藩主浅野綱長と三次藩主浅野長澄の兄弟や保科正容を招いて能を催した。十三日には御小将横目以上と御医師を対象に披露して宝生太夫の能を観る。二十二日江戸を発して帰国の途に就き、二十八日越後今泉川で洪水に遭遇しつつ六月六日金沢へ着いた。
十八日金沢町奉行から越中境の関所を通行する過書の交付手続きが上申され、二十八日行路病者の保護を諭し、また家中で近年緩みが目立ち行儀が良くない者がいるとして組頭に作法の良くない組中には二・三度注意し、それでも直らない者を報告するよう命じた。二十八日閉門を命ぜられた者の作法を定め、表と裏の門を打ち合目を外から板で打ち付ける、出格子窓には板を打つ、軽輩者の片扉には五・六寸の丸竹か木で打ち止め、これも透いた所は板を打つ、くぐりが無いなら目立たぬ所へくぐりのような口を付ける、等を明確にした。七月三日奥向の近習を十三人(小将六人・馬廻六人・定番一人)選考し毎年白銀二十枚を給す。割場附足軽が千百六十三人と小頭百十人がいて、六十六組を備えていた足軽が毎年減り小頭も二十四人減ってしまい、特に江戸へ小頭が七十人余廻しているため、各地で小頭二人が平足軽二十人を統率する体制を維持しにくくなっていた。そこで六日に六人の小頭を補充することを検討する。御算用者も同様のため小頭の増員を二十二日に検討する。十一日家中で子供が生まれても届出ないことの無いよう令す。十四日流刑に適当な地を領内で選定し能登と越中で調査する。同月には罹災者の家屋建築に際し下付する材木は、上等な物ではなく粗末で良い、こけら葺き三寸五歩の厚さ等と規定した。この月には組外組永山丹七郎基次が狼を斬って知行召放に処されている。
八月八日本郷邸で側室の町が男子を産む。町(萬知)は三田村紋左衛門氏定の長女で兄に喜六郎定敬がいる。氏定は山崎如水と称した。蟇目を奥村伊予時成が指名され金沢から江戸へ向かった。十九日駒井與兵衛直寛と蜂谷孫右衛門友重が幼名を献じて勝次郎と名乗る。九月九日に御産髪を御料理人山内平左衛門が剃り、十一日駒井與兵衛が富士社へ代拝して銀十枚を献じた。十二月十三日には御色直御祝が行われた。綱紀は養育にあたり侍女が干渉しすぎないことを方針とする。
八月二十一日馬廻組高崎半九郎等四人が遊女を集めて不法な行為をしたとして子と共に五箇山ヘの流刑が決まる。十月十八日遊女十九人が能登奥郡の島に流された。関与した出合宿等の町人も耳鼻削がれ追放等に処される。なお綱紀は五箇山を流刑地に定める際に十村へ尋ね、田向村は庄川の上籠の渡り、飛騨境山越に一里ほどだが越すことは難しく里方へ出るには籠渡りを使う以外脇道は無い、祖山村も同様で十村居所でもあり先年長九郎左衛門家来六人遠島のうち四人がいる、他の村は百姓こそ少ないが雪の際に隣村との通行が途絶し流人が逃亡を図った時に追掛けにくいとの報告がある。再度調べれば川の水が少ない時に歩いて渡ることが可能であることが分かり、看守を置くことに決めている。
二十八日家中で藩から借銀した者に米価下落のため弁済延期を許した。九月六日捨子の罪を犯した者は精神錯乱のためであろうと死罪ではなく禁錮に処すことを決める。二十四日組外組番頭の実態調査を命じた。二十八日改作奉行等の勤務について上申があった。
十月十日から宝円寺で利常の三十三回忌を執行する。二十四日宗門改帳の取扱いを簡易にし、十一月一日江戸の聖堂に手水鉢を献納した。六日捨子厳禁の幕令を領内で触れる。十三日と十四日に綱吉から拝領した屏風を金沢で披露し能を催す。十六日盗賊を捕らえたら勝手に釈放しないよう令す。二十二日小杉や新川郡の奉行からの尋ねで諸国宿駅の駄賃が増したため領内でも一割増とする。
金沢城の東丸に獅子の彫物を扉に彫った三庫があり、ここが金銀庫であった。十一月二十一日小判四百二十両と一歩百七十切が盗まれたことが判明、盗賊改加藤十左衛門が捜査に当たり、翌年九月二十四日に黒梅橋番人大工平佑(平佐・平丞)が逮捕される。扶持人大工であるため城中をよく知り合鍵を作ることができた平佑は、三日に食糧持参で城内蓮池の高石垣水戸の下に隠れて夜になるのを待ち、土蔵に入って封を切って金銀を取り出し、また白紙で封を付けておいたとのこと。盗んだ小判等は家の土中に埋めていた(二百貫目朱封銀、箱数二十とも)。平佑は翌年九月二十四日に禁牢(公事場で生胴の刑に処されたとも)、定番御馬廻で土蔵当番の津田采右衛門政遥と永井藤右衛門尚有は遠慮、同六年になって二月十九日閉門が申し渡された。本来夜の当番は永原左六郎孝古が務めるはずであったが、娘が病気のため本来は昼当番の永井に替わってもらった夜の出来事であった。
同年に新田裁許を設置し蔭聞役を兼任させる。さらに領内町方宿方の戸数調査を行う。越中領では、埴生村七十八軒(うち一軒社人)、今石動町千百六十二軒(うち十五軒寺社・六軒山伏)、立野村百六十一軒(うち三軒寺社・一軒穢多)、高岡町二千七百四十軒(うち四十六軒寺社・十三軒山伏・六軒非人・二軒穢多)、小杉新町二百六十軒(うち三軒寺・一軒山伏)、下村百七軒(うち三軒寺)、東岩瀬村三百六十六軒(うち三軒寺)、西水橋村二百二軒(うち二軒寺)、東水橋村百六十七軒(うち一軒寺)、滑川町四百三十四軒(うち九軒寺社・七軒山伏・四軒穢多)、魚津町八百三十一軒(うち二十一軒寺社・九軒山伏・三軒非人・六軒穢多)、三日市村百十八軒(うち二軒寺)、浦山村九十二軒(うち四軒寺社)、舟見村九十八軒(うち四軒寺社)、泊町百九十六軒(うち三軒寺・二軒山伏・一軒穢多)、境町九十六軒(うち一軒寺)、福光村二百四十八軒(うち一軒寺・一軒山伏・三軒穢多)、城端村七百二十六軒(うち六軒寺・四軒穢多)、井波村三百十軒(うち二軒寺・四軒山伏)、戸出村百二十三軒(うち三軒寺・九軒藤内・二軒穢多)、中田村百三十軒(うち一軒寺・四軒藤内)、佐賀野村九十七軒(うち一軒寺・二軒藤内)、守山村六十二軒(うち三軒寺)、氷見町千二百四十三軒(うち十二軒寺・二軒山伏・十軒藤内・二軒穢多)、伏木町百九十五軒(うち一軒寺)、放生津町九百四十五軒(うち九軒寺社・一軒山伏・三軒藤内)、三戸田村六十八軒(うち二軒寺・二軒藤内)、町新庄村百三十一軒(うち六軒寺・四軒藤内・四軒穢多)、入膳村七十二軒(うち四軒寺)、生地村二百四十七軒(うち二軒寺社)とある。町と村の表記や水戸田等の地名に揺らぎがある。新庄について元和元年の洪水で中川とその東に向新庄村、明暦二年の洪水で荒川が出来て、翌年新庄を町新庄と改めることで新庄三ケ(町新庄・向新庄・荒川)が成立した(富山市郷土博物館「博物館たより」第三十五号、平成十一年十一月三十日)。
九、大願十事
同四年正月元日に綱紀は御膳に出された鶴の膾を老臣に分け、以降の慣例となる。同月に田地新開で十村等に強く注意を与え、近年十村や御扶持人が名義を変えて新開地を取得する、開拓者から新開地を少し貰おうとする者がいる、等を聞くが小百姓の迷惑であり、そもそも新開については六月までに届を出すよう昨年伝えてあったはず、三月までに十村・御扶持人は調べて提出すること、四月になって貧者が出るようなことがあってはならない、と心得を諭した。二月十四日藤内頭三右衛門と仁蔵から公事場奉行へ、配下の非人乞食で紛らわしい恰好をしている者がいるので吟味し札を持たせよとの指示を非人頭に申し付け、手癖の悪い者がいたら処断することの上申がある。十七日夜に高木伊勢守から加賀藩聞番が呼び出され、由比孫兵衛が赴くと、御馬廻不破五左衛門の倅久右衛門が領国への帰途に路銀が無くなり病気になっているとのこと、日本橋近辺平松町の名主が駕籠で運び引き渡した。
二十一日三か国に一人ずつ盗賊改方を初めて任じる。「政隣記」では越中に御持筒頭・御横目兼帯井上久太郎が与力二人・足軽二十人と赴任し、加賀は御鎗奉行加藤十左衛門、能登は御持筒頭村上助右衛門になっているが、「藩国官職通考」では井上が能登で、越中は御持筒頭村上助右衛門敬忠とある。魚津に駐留して領内を巡回し、享保元年五月御持筒頭岡田助右衛門之種が没して後は魚津在住が兼任した。
二十四日新開田の免が確定するまでは郡打銀を徴収しないよう命じた。同月藩の費用で用水の普請を希望する所に出願させた。二十六日石川郡宮腰で大火があり、二十七日に火災の時には横目三・四人が登城し城下以外の火元に派遣、城下には使番が派遣されることを定め、二十八日火消役頭を任じた。さらに三月七日火事の際に遠所を廻って怪しい者を捕らえる准盗賊改を設置し、御馬廻組六人(四人当番・二人非番)に命じて足軽を三人ずつ付けた。
十六日金沢で側室の皆が男子を出産し、定番御馬廻組不破八郎兵衛が富五郎と命名した。十七日定番御馬廻頭へ組中の取締を厳重にするよう命じ、二十四日定番馬廻の欠員九人を補充した。二十八日家中に遊楽の伎芸者や無用な物を売る者を宿泊させないよう命じ、御抱能役者竹田権兵衛(三百石)が京で勧進能を催すため、銀五貫目・金小判三十両と能装束を付与する。家中長谷川内匠(千石)が破産し立山麓の村に移され三十人扶持で暮らすことが命じられた(嫡子と次男は綱紀が召出す)。同月に綱紀自ら大願十事を定める。
一、大願十事
謹 考
第一、八幡宮造營事
第二、菅廟造營事
第三、御宮御佛殿造替事
第四、於二如來寺一御佛殿造營事
第五、新御佛殿造營事
第六、寳圓寺造營事
第七、瑞龍寺修造事
第八、天徳寺修造事
第九、先聖殿並學校造營事
第十、金澤別舘經營事
右十事之大願、往年所レ記二置之一、今復改二書之一、自勵二其志一。
于レ時元祿萬年之第四歳次辛未仲春十有九日
從四位上行左近衞權中將兼加賀守菅原綱紀拜謹記〔前田家文書〕
綱吉が生母桂昌院と約束して描いた二幅から、寿老人の絵を綱紀が拝領し表具して二十六日金沢で老臣に拝観させる。二十九日金沢を発ち四月十日江戸に着く。勝次郎との対面は同日あるいは翌日の事であり、廷寿国資作御刀と三池の御脇差を贈った。十三日にも御広式で家中と御目見させ、十六日奥村伊予時成が蟇目弓矢を献上する。十五日綱紀は登営し参勤の御礼をする。この頃には家中が引き起こす事件や出奔が多発し、十八日風紀を正しくするよう申し渡して、町人に金銀を借り賄賂を受取るようなことの無いよう諭した。
二十五日能を演じる命を受けていた綱紀は、辰の下刻に出て戸田山城守と保科肥後守正容の所へ立寄ってから登城する。甲府や御三家と交じり舞台に立ち葛城を演じて酉の刻に戻った。二十八日勝次郎と富五郎が生まれたことを老中と側用人牧野備後守成貞に報告する。五月四日保科正容や浅野綱長・長澄を招いて綱吉から拝領した料紙箱等を披露し囃子を行う。六月四日赦免された大奥女中のふりが桂昌院に召されたため原三郎左衛門儀長が同道して金沢を発つ。原には綱紀が二十五日に御羽織・晒布五匹、養子の十郎兵衛へも晒布三匹を下して労った。十二日登営し能を観覧する。二十五日大銀奉行大場源太夫と富田弥兵衛が御土蔵の金子紛失の責任を問われ召し放ちになるが、盗賊の仕業と分かり同六年二月十九日に復帰させた。同月綱吉へ献上する狆を砺波郡と射水郡で探す。背丈一尺二寸以内で足は細く耳が立ち、額と顎が突き出ていない、両目の上に斑が無い、尾はゴボウみたいでないもの、毛色は黒く赤毛か飴色でもいいが一色のことといった条件を付けたため見つからず、年内調べたうえで翌年に毛色は問わず丈八・九寸から一尺一寸までの雄犬と改める。
七月十七日宝生太夫が能舞台の設計のため駒込邸に来て、舞台の高さや見え方を考慮し柱の大きさを定めた。八月一日八丈島の宇喜多氏に昨年贈った物品の領収書が届く。四日駒込邸で能舞台が建築されたが、作事に不審の儀があると検査を受ける。それでも閏八月五日綱紀は駒込邸能舞台の鏡板に松を描くことを、加賀藩に仕えている狩野伯円(神田松永町狩野家)に命じた。十八日昌平坂の聖堂に綱紀が参詣し、青江守次の太刀(後藤悦乗の荘飾)と馬を献じる。十月九日綱吉へ口切の茶(今年初めて新壺に入れ純子(どんす)の袋に上箱は白桐)を献上するため、横山筑後を江戸城へ遣わす。十一月十四日不作のため収納の米検査を緩めるよう指示した。十二月二十六日登城した綱紀に家中から二人叙爵することを許す沙汰がある。そこで本多政長を正式に従五位下安房守、前田孝貞を従五位下駿河守に推挙した(佐渡守は京都所司代小笠原佐渡守長好に憚り避ける)。これは本多安房守と横山山城守が叙爵して以来の事であった。
同年の廻米は二十万四千八百七十三石で十三万六千五百八十二石を木屋や升屋が裁許する上方船、六万八千二百九十一石を地船で運び、この内江戸へ廻す二万五千石は一万六千七百石を木屋や升屋の上方船、八千三百石は地船で運んだ。大坂や江戸へ着くと一石に付十匁ずつ諸経費が掛かった。
十、前田利明との別離
同五年正月二日の御夜詰御謡初で宝生吉之助が江戸邸で勤める。四日鳶等の鳥の巣を取り払うことを禁じた幕令を領内に触れる。七日登営した綱紀は本多政長と前田孝貞の叙爵を謝し、時服二十を献上した。金沢では使者の平田清左衛門が叙爵を伝えた。十日金沢城番所での在り様を決める。十三日綱紀は大学頭林信篤を招いて大学を講義してもらい、家中にも拝聴させた。この日には勝次郎の髪置の儀が執行され、定番頭野村與三次衛重能が白髪を奉り、野村は綱紀から直に相州正広の脇差一腰の代金一枚五両、妻も白銀十枚を賜る。十五日御祝儀として桂昌院から勝次郎へ金一枚と紗綾二十端が贈られた。二十五日前田孝貞はこれまでの通称佐渡を叙爵した駿河守に改める。二月九日本多政長と前田孝貞は江戸へ着き、十一日に口宣を賜り、朝廷や老中・若年寄・御側衆へ太刀馬代や綿を献上した。
二月一日金沢で寺西孫九郎が屋敷内に入り込んだ狼を仕留めるが、生類を憐れむ幕令に背いたとして追放に処された。三月二十七日登営した綱紀は能を観覧した際に、綱吉から綱紀が書を講じるのを聞きたいとの命を受ける。四月二十三日宇治黄檗山高泉和尚を招き小書院にて三汁十菜で饗応する。五月一日勝次郎へ菖蒲冑二頭(筋星の冑と梨子打の冑・前立物御家紋)と大旗一本(白地御紋付出し餅花)・小旗二本(白地御紋付旒共)・吹貫一本(赤地スソガンギ白旒共)・御細工所で作った月に兎の作物一本を贈る。節姫からも菖蒲冑一頭が進ぜられ、奥村伊予時成は飛脚で菖蒲冑一頭と鰹一籠を献じた。この日の暮六ツ時に越中で流星が西から東南へ焙烙のような音を立てて飛び(改作所旧記)、沖村(砺波郡か)へ落ちて二軒焼失したと伝(政隣記)。十一日四辻公詔から土師清太夫を通じて、後陽成天皇七歳の御時宸筆天満天神号を譲渡したいとの連絡があり、綱紀はありがたくお受けする。十三日夜に江戸で大聖寺の前田飛騨守利明が五十六歳で卒去した。
六月三日綱紀は江戸城で中庸の首章を講じ儒仏理一を唱道、翌日御礼登城し二種一荷を献じた。七月九日利明の跡を子息の内記利直が継ぎ、その弟采女利昌は新田地一万石を内分で給され(大聖寺藩の石高は七万石を維持)名義上分封した(大聖寺新田藩)。八月十一日綱紀は二人を招いて祝う。勝次郎は七月二十九日に富士社へ宮参りする。
十一、高山在番
高山藩では延宝二(一六七四)年に富山藩との訴訟に勝利し、藩主金森出雲守頼旹(よりとき)は元禄二(一六八九)年徳川綱吉により四月奥詰衆、五月側用人に登用された。しかし不興をかったと見え翌三年には一転する。四月に免職、伊勢神宮正遷宮奉行に転じたが、同四年六月に屋敷替、同五年七月二十八日には出羽国上山に移封となってしまう。跡には関東郡代伊奈半十郎忠篤が代官兼任を命ぜられる(同年八月~十年十月)。八月二十二日に加賀藩へ高山在番の命が下る。綱紀は二十七日聞番杉江杢左衛門を金森の屋敷へ派遣し高山の様子を聴き込む。派遣する在番は馬廻頭永井織部・鉄炮頭中村惣右衛門・弓頭橋爪縫殿、他に目付・使番・織部組番頭・同組使役・組之侍二十人・役儀申付候者四人・織部組与力五人・惣右衛門組与力三人・縫殿組与力三人・徒之者四人や足軽・小者という陣容で、装備は弓二十張・鉄炮三十挺・長柄三十本、織部は別に弓五張・鉄炮八挺・馬幟を指す。幕府方の上使は浅野伊左衛門正氏が務めることになった。九月十日には江戸で前田綱紀から定書が下され、翌日江戸を出て、二十四日には金沢を発ち、二十七日古川に着く。浅野伊左衛門は十月一日に到着している。三日に城の引継ぎを完了した。
在番は同六年四月藤田平兵衛、十月津田求馬、同七年五月野村五郎兵衛、九月山崎源五左衛門と交替し、同八年正月に和田小右衛門が内定したものの高山城廃城の指示があり発令されなかった。正月に奥村市右衛門を破却惣奉行に任じ、二月に横目矢部権丞等に廃城御用が仰せ付けられ、四月には御普請道具・足軽御大工等が到着、二十二日に本丸三層櫓より解体を始め、翌月十三日に二ノ丸を取壊す。見分のため二十四日に和田小右衛門と御先筒頭・御横目兼の塩川安左衛門が赴いた。在番は十五日までに任務を終え、二十一日には帰藩する(十日とも)。
廃城時の材木には印を押し加賀藩の役人が管理していたが、幕府は十三貫目でこれらを引き取っている。代官の陣屋は旧藩時代の下屋敷を高山陣屋として用いるが、伊奈忠篤を継いだ伊奈半左衛門忠順(元禄十年十二月~正徳二年二月)、半左衛門忠逵(みち)(同二年五月~五年七月)までは兼任であり、専任の代官が赴任するのは、正徳五(一七一五)年の森山実道からであった。代官は江戸にいて秋になると高山に来ていたのを、長谷川庄五郎忠崇(むね)より陣屋常駐となる。
この間に綱紀は同五年九月四日に就封の暇を受け辞見し、十四・十五日江戸で能を催し家中に観覧させ、二十一日吉川惟足を招いて神代巻の講義を聞く。二十七日江戸を発ち十月九日に金沢へ着いた。十二月十五日綱吉から拝領した絵や匂釜・料紙箱・硯箱・香炉を家中に拝観させる。
同六年正月一日に御直衣・風折御烏帽子で綱紀は直垂姿の本多安房守と前田駿河守から御礼と老臣からの祝賀を受ける。七日鳥を捕らえるのに黐擌(はが)(竹や木の枝に黐(もち)をつけ囮をおいて小鳥を捕らえる罠)の長さは八寸までとする。十五日十村が城中で高足を許され料理を出される習慣の由来を戸出村又八に下問する。又八からは慶長中に十村を任命し正保頃御改作で御用のため登城し小松城へ夜詰や御次にも出た、承応元年戸出村又兵衛と田中村角兵衛が十村頭を仰せ付けられ、翌年両名に御扶持頂戴、御馬と御鑓を拝領し高足が許される、御料理は城中で御賄として下されたが、御祝料理は寛文以前に無かった、寛文三年から正保四年まで御扶持人・十村に御目見を仰せ付けられる、この十三日に御祝下されたのに体調が良くないため登城できず、それでも御肴を下され忝い、との回答が出される。
二十八日御算用場から舟改人の起請文案が示され、地船には米を千石より多く積まず千石積の大船や六・七百石積の上方船があれば知らせること等が記される。三十日新村を建てる手続きに付き、組や村名を書き奥書を郡奉行へ請求したら改作奉行宛に書付を出すことを定める。二月十四日作食蔵の警備に関し、毎年十二月に納め翌年三月まで段々貸渡すので、この四か月は一ヶ所に番人一人ずつ立て厳重に守備すること、四月から十一月までは月に一・二度廻り雪垣や惣廻垣等を警戒し、蔵の玄関に乞食を臥せさせないようにすることを令した。三月四日鳶等の鳥の巣を払わせるが、卵や雛がいたらそのままにするよう達した。九日新たに高山在番を命じた半田惣兵衛の赴任を取りやめ蟄居を命じる。半田は前任の永井が過大に兵を率いて赴任したこともあり、自身は引率する部隊の数を過少に申告したため問題化した。替わって藤田平兵衛が四月七日に率いる命を受け二十六日に出発する。奥小将の葛巻(かづらまき)権佐昌信(昌興)は半田への処置に反対して三月十四日に綱紀へ諫状を出し、綱紀はこの行為を賞すが近習として慎むよう伝えたため、葛巻は屋敷に閉じこもって使用人も解雇する等抗議の意思を示す。そのため六月十日に寺西石見宗寛の屋敷で蟄居させ父・叔父や二人の兄も遠慮や閉門に処された。十八日に能登の津向村へ十人扶持で配流となり、その後に赦免されても戻ろうとはしなかった(宝永二年三月四日五十歳没)。
主上に一宮が御降誕され給い、三月に綱紀は祝賀のため御先手奥村湍兵衛を派した(四月九日金沢帰着)。四月二日村々に五人組を立て出生した幼児を帳面に記して捨子の出ないようにさせる。二十四日大聖寺の前田利直が出羽庄内酒井忠義の姫と婚儀を挙げた。この時の庄内藩主は酒井忠真であったが就任したばかりの江戸城奥詰と側用人を解任されていた(翌年再任)。
五月二日金沢町奉行和田小右衛門から藤内頭の由来について報告がある。藤内と穢多は同じではなく穢多は藤内より下で縁組もしない、藤内頭は犀川下にいて仁蔵と三右衛門が領内全てで支配する、穢多は加賀と能登を浅野川下の甚太郎と九兵衛が支配し越中では戸出の孫右衛門が支配している、穢多(皮多のことか)は牛馬の皮を剥ぎ滑革にするが藤内はこれをしない、前に御鷹の餌の犬を打った時は剥いだ皮を穢多へ売った、穢多は毎日諸方を駆けまわり死んだ牛馬の皮を剥ぐ、藤内は公事場に詰め拷問・殺害人裁許や掃除をし磔・獄門・晒者・町中渡者・御追放者等の際に罷り出て勤める、火事の時には仁蔵と三右衛門がそこの藤内を率いて公事場に出る、穢多はこの役を勤めることは無い、乞食は藤内や穢多とは違うが仁蔵と三右衛門の支配下で札を渡し乞食をさせるので小頭を置いて裁許させている、物吉は乞食とは違い代々七兵衛が支配し五節句や御家中・町方で祝儀がある際に申し請ける、ただし物吉の数が多くなると仕事が減るので子孫無病の者は朝夕に乞食を希望し、これらは仁蔵と三右衛門から札を渡して支配させる、と上申し十三日には能登の事情も報告させた。
四日羽咋と能登の舟改人に船具の良し悪しを調べさせ、高山在番を勤めた永井織部が帰任したので六日に召して二十六日能で慰労し料理を振舞った。十日綱紀は能の半蔀(はじとみ)(源氏物語の夕顔上が光源氏との思い出を雲林院の僧に語って舞う)の演じ方について、自身が中将だからといって源氏の中将など何々の中将の語をいちいち直す必要は無いが清経にこれは中将殿の黒髪と申す類は必ず謡替えせよ、と指示を出す。二十二日家中家来で長屋や請地に住む者が捨子をしないよう取締まるよう命じ、同月捨子を防ぐための帳面を作成する。六月六日行路病者の保護を怠らないよう命じた。七月三日養母や養子の実情を調べさせ、九日金沢を発つ。十四日に大聖寺の大火で陣屋が焼失した。
十二、参議昇任
綱紀は二十一日に江戸に着き、二十七日参勤御礼で登城する。同日様と殿の使用について幕府に倣って(甲府を殿)基準を作り、親類でも備後三次の浅野土佐守長澄は浅野長照(利常の外孫)の養子であるから今後は土佐守殿、富山の正甫や大聖寺の利直は天徳院(徳川秀忠女)の孫であるから様とするよう達した。同月十村・御扶持人に職務を怠らないよう諭し誓書を改めた。八月十日十村手代からも改めて誓詞を提出させる。二十五日天徳院で上棟式が行われた(十月十日三門が成る)。二十七日江戸の良姫が五歳で夭折する。九月六日村々での立毛検査の際に改作奉行への接待は簡易にするよう命じる。二十六日利直が綱紀を訪ねた。
十月一日江戸城に御三家と共に招かれ、綱紀は大学の知止の章を講じて綱吉から滞らず宜しいとの評価を得た。その後に綱吉が御仕舞六番、御三家と綱紀も加わり綱紀は芭蕉の上を舞い、綱吉から八丈織五十端を拝領した。六日高山在番として津田求馬等が金沢を発つ。十九日側室の皆が金沢で直姫を産む。この頃生類憐みのため諸大名は幕府から預かった鷹場を返上し、加賀藩へも老中から内意があったため、綱紀は二十三日に相模にあった鷹場を返した。二十八日百姓の死去した跡高について、後家や娘に急遽入婿させ継がせるような方法では次第に百姓が弱体化するし、妻子以外の別の百姓に申し付けると先の妻子は流浪してしまいかねない、どうすればよいかとの伺いがあり、綱紀は他人に持たせて耕作させるしか方法はないと回答する。同月豊作のため以前からの貸米を返還させるよう命じ、郡方へ横目を置いて見分したことをありていに報告するよう誓詞を出させた。
十一月二十一日浅野吉長等多数を招いて綱吉から拝領した絵を披露し能を催した。二十六日には利直・利昌兄弟を招き披露するはずであったが、二十四日に利直の相聟(妻が同じ酒井家)の下総古河松平日向守忠之が改易になり弟の大和興留松平信通に御預けとなる。父の信之から陽明学者で幕政を批判した熊沢蕃山を預かっていたが、父共々心服し二年前に蕃山を領内の鮭延寺に葬り、当年十一月二十三日老中戸田忠昌からの使者と会った夜に髷を切り落とし、これを家臣が幕府へ伝えたことから綱吉は乱心扱いで処分していた。このため利直も外出を止め、結局披露はしたものの能は止めて料理だけにする。
十二月一日に綱紀が登城すると御座の間で左近衛権中将のまま参議昇任の上意がある。金沢へ使者が遣わされ十四日に着いた。十五日登営し謝して金十五枚に当たる備前青江正恒の太刀(金具を後藤悦乗が製し今織の袋に銘を白糸で縫う)と小袖二十(うち熨斗目二・縮緬四・綸子四・練嶋一)・干鯛一箱・黄金十枚、桂昌院へ白銀三十枚と干鯛一箱、御台所(鷹司信子)へ白銀五十枚と干鯛一箱、綱吉の姉で尾張の徳川光友正室千世姫と綱吉の姫で紀伊の徳川綱教正室鶴姫ヘ紗綾二十巻・二種千疋ずつ、御台所の母(冷泉為満女で鷹司教平正室)へ白銀三十枚と干鯛一箱を献じ、幕閣では大久保加賀守と阿部豊後守へ太刀馬代金一枚ずつ、土屋相模守・牧野備後守・柳沢出羽守へ綿二百把・干鯛一箱ずつ、戸田山城守へ太刀馬代金一枚・小袖三重・綿二百把・干鯛一箱、若年寄衆へ綿百把ずつ、御側衆や老中方御息へ太刀馬代金一枚と綿五十把ずつ、女中頭五人へ綿二十把ずつ、その他役人達にも配った。十六日に金沢城中で昇任を披露する。十七日昇任の口宣(菅原朝臣綱紀)を受領するため人持組永原左京孝之を江戸から京へ発す(「御年表」では十六日江戸発・二十六日京着)。従者八十五人(乗馬三匹)には小袖三と金子三枚・御羽織一枚ずつを下す。さらに十八日日光山へも昇任を謝すため玉井勘解由貞信を派し、従者六十八人(乗馬三匹)にも同様の物を下して、増上寺・伝通院・広徳寺へも参詣して白銀二十枚ずつ供えた。二十八日江戸から金沢へ綱紀のことを家中は相公様と称すよう達しがある。
十二日羽咋や能登に宛て百姓の高を他人に譲ったら回収できないこと、跡高相続は嫡子以外に分けないこと、それも子供が多いと分割して高が減少するため嫡子一人に相続させ、次三男は奉公へ行くか能力に見合った商売をしたらよい等と達す。二十日藩米廻漕のため雇う船について千石以上の大船は用いないことを令した。同年八丈島が不作で幕府は千石を支援したが、宇喜多氏から懇請や加賀藩領内に住む浮田氏からも頼まれ四十石を送るつもりであったが、幕府の御米小舟三艘に積むため二十石のみ送付した。
同七年正月一日綱紀は登営し拝賀して太刀馬代を献じ、御時服白綾を初めて拝領した。勝次郎が着袴の儀を行う。五日には昇任を謝し、朝廷禁裏へ太刀と白銀百枚を献上し、上臈御局・長橋御局・大御乳入へ白銀五枚ずつ、その他へも物を贈った。九日祝いを京都所司代や京都町奉行・禁裏附・本所御所附等へも配り、特に綱吉の信頼が厚い所司代小笠原佐渡守長重へは太刀馬代と綿百把を贈った。二十五日には本年と来年だけは藩米廻漕に千石以上の大船を用いることにする。二月十一日十村から川除などの土木作業に御郡人足を出すと農業が出来なくなってしまうので、普請場近くの住民で作業し工事道具等は藩で準備してもらいたい等の上申が出された。三月八日これまでに刑罰を受けた諸士の姓名や罪状を報告させる。二十四日東本願寺門首の一如と甥で次期門首真如が本郷邸に綱紀を訪ね、麪類や御菓子・御盃で歓待し、金沢別院造営の事か御庭まで出て綱紀と談じた。また来月(四月三日から五日まで)に光高五十回忌法会を天徳院で執行するので付近の警備を厳重にするよう命じる。二十六日十村等が百姓持高の預入の実情と取扱いを改作奉行に議した。
十三、江戸城での講義
四月二十六日綱紀は御家門(親藩)や井伊掃部頭直該(なおもり)と江戸城御座所で綱吉が論語を講じるのを聴く。水戸の隠居で権中納言徳川光圀も大学を講じた。その後に能が催され綱吉が江口・安宅・乱を舞い、前田利直が氷室を、伊勢亀山本多康慶の嫡男康命(やすのぶ)が忠度を演じた(徳川実記)。五月六日綱紀が老中等幕閣を招いて昇任祝いの能を催す。高砂・東北・養老・末広・福の神を演じさせ、老中等が退出した後でも羽衣・田村・通小町・花月・猩々を観覧した。十六日高山在番として野村五郎兵衛が金沢を出発する。二十九日にも綱紀は浅野綱長・同吉長・前田利興・同采女等を招いて昇任を祝った。同月十村等から物成の算出方法について上申がある。
三百六十歩一反上田 内六十歩畔引 残り三百歩
この出来米二石四升 但、百姓手作に仕上田にて取上げ申図り一歩に付八合ずつ
八升 六十歩畦歩数の内三十歩無地 残り三十歩大豆・小豆作取 三十歩畠並三ツ折にして一歩に付米八合ずつ
一斗二升 ゆりこ二斗四升 但二ツ折にして
八升 めうし二斗四升 但三ツ折にして
二斗五升二合 藁九十束代六匁三分 但米直段石二十五匁にして
閏五月三日東本願寺金沢別院の造営に着手する。二十二日綱紀は登営して紀伊や甲府と共に綱吉の論語の講義を聴いた。その後に甲府の綱豊が論語の講釈をするのを聴き、紀伊の光貞や甲府綱豊はかねてより綱吉の御筆の物を希望していたため、光貞には「尊徳性」、綱豊には「敬直内」の三文字が下賜された。六月六日十村等から出されていた川除普請の方法に関しての意見が上申される。三十日綱紀は就封の暇を受けた。綱紀は保科正容と共同で綱吉に易の講義を希望していたため、七月三日に登城して講義を聴き、綱紀と正容からも論語を進講する。その後舞を見て綱吉から綱紀には「徳不孤」の横三文字に細字で諱が入った直筆を下される。二十六日正容や浅野綱長・同吉長・前田利興・同采女を招いて綱吉から拝領した書を披露し能を九番催して、表具師の宗恵を呼び表具を依頼した。二十七日に牧野大蔵(牧野成貞が綱吉の命で養子にした妻父方伯父の子成春の三男)を招くと、常陸笠間の本庄宗資(桂昌院の弟であり父の宗正は二条家家臣)も押しかけてきて御奥書院で綱吉の書を観覧する。綱紀が能を五番催し牧野にも能を所望すると、この内から鶴亀・橋弁慶・善界の三番を舞った。
八月十三日江戸を発した綱紀は二十五日に金沢へ着くが、この途次十九日信濃関川の御旅館で御広式番長田作右衛門が川渡奉行の任務中、暁天に家来二人を刺殺し自害する事件が起きている。九月十三日から金沢城で綱吉の書を披露した。二十六日高山在番に山崎源五左衛門が出発する。十二月十四日江戸と大坂に蔵米を運ぶ船は六月晦日前に各浦へ集合するように命じた。
同八年正月七日高山在番に和田小右衛門を発令するが、江戸では大久保加賀守に聞番の杉江杢左衛門が呼ばれ高山廃城についての御奉書を渡される。これを御歩岡本勝右衛門と狩谷源五郎が金沢へ運び十八日戌下刻に到着した。綱紀は大小将芝山彦三郎に急御使を命じ、二十二日夜江戸の本多弥兵衛への御口上書を渡し二十七日に江戸へ着いた。これにより高山在番を廃す。同月十村・御扶持人・山廻等が他人の切高を獲得することを禁じた。
二月十二日十村等から御郡打銀賦課の方法について報告があり、御郡御用を勤める者は元和六年に郡奉行が指定した役家で、三ヶ国で二万二千七百軒、越中では一万軒・加賀では八千軒・能登では四千七百軒が正保三年まで郡打銀を負担していたが、同四年より草高で賦課することに変更する、川除普請入用銀・里子給銀・同飯米・往還筋渡舟・渡守給銀は御郡打銀から出していたのを、寛文六年からは御納戸銀より支出されることになった、川除用水御普請人足は役家が出て勤めたので日用銀は不要であり、十村や村肝煎・その他郡内の大鋸杣等は諸役を赦免されていたが、延宝四年からは諸役が草高で賦課されるので区別が無くなった、と上申した。同月には御扶持人十村へ与えた印物等は辞任や解任の際に返還されること等を規定する。
江戸の駒込邸内にある百姓から借りていた場所を四月二十三日に返却する。同月に高山城を破却した。綱吉が犬舎を中野十六万坪や大久保二・五万坪、四谷一・九万坪に構える命を発し、四月一日この建設を大聖寺藩へも命じる。ここへ江戸町中の牝犬八万二千余匹を捕らえて収容し犬の増殖を抑える計画であった(残襄拾玉集)。日に犬一匹に付き食料米二合と銀二分を用い合計して銀十六貫目余の支出、一年で九万八千余両となって、これを商家に賦課させるという。建設は隠密裏に行われる。大聖寺藩へは四谷の地均しが指示され人足を毎日五・六千人使う。ここへ二間梁・九尺梁等で長さ四十間ずつ幾筋も小屋を掛け木戸を立て番人を置くというものであった。さらに大聖寺藩は中野で小屋の建設にも当たる。
五月十九日鷹匠や餌指が携行する鑑札の見本を村肝煎へ渡した。七月六日に綱紀は金沢を発ち十八日江戸へ着いて二十五日に登営し参勤を御礼する。十月二十九日羽咋・能登・鳳至に宛て不作のため米質検査を緩やかにするよう令した。十一月二十八日十村等が切高を取得することに付き口郡宛てであるが一転して認める。三十日登城した綱紀は甲府中納言綱豊・尾張中納言綱誠・紀伊世嗣宰相綱教・水戸宰相綱條(光圀兄頼重次男)・老中待遇となったばかりの井伊掃部頭直該・松平讃岐守頼常(光圀長男)と同席して綱吉の中庸についての講書を拝聴し、料理や仕舞があり綱紀も演じて八丈嶋五十端を拝領する。御三家は綱吉に願って書を賜った。十二月六日江戸邸内の犬を調査すると二百四十一疋いた。幕府からは犬を大切に扱い傷つけたら罰し、特に痩せた犬は飼うようにせよとの指示があったためであった。
同九年二月十二日に米価高騰のため米の売買は三十日までに限るよう達した。十五日御三家・甲府・頼常と綱紀は綱吉に希望し江戸城で講書を拝聴し、その後に舞を見た。綱吉は尾張大納言光友へ書、他へは銀花瓶を下す。十八日領外に米穀を移出する時には許可を得ることや他領の商人に米穀を販売することの禁止を触れる。三月に金沢城二ノ丸御殿を造営する参考に、以前から普請している建築費を報告させる。貞享三年の時には五百六十七坪余に九十八貫八百十六匁で一坪に百七十四匁三分であったが、元禄七年六月から翌年六月までに二百六十一坪で四百八十六貫百四十三匁三分のため一坪に一貫八百六十五匁、同九年六月から翌年二月まで係る分は九百二十一貫四百六十三匁七分七厘で六百二十七坪のため一坪に一貫四百六十九匁六分となることが分かった。造営は六月十五日から着手された。
四月四日江戸城で綱吉による中庸の講書があり、綱紀は御三家・甲府や井伊直該・松平頼常・伊予西条松平左京大夫頼純(紀伊頼宣三男)・美濃高須松平摂津守義行(尾張光友三男)・常陸保内松平播磨守頼隆(水戸頼房五男)・常陸額田松平大学頭頼貞(水戸頼房孫)と拝聴し、その後に能があり綱吉も難波・東北・小鍛冶を舞う。
十四、飢饉への対応
前年の不作が飢饉を発生させ、越中領では新川郡に堀源左衛門と中村四兵衛が派遣され三百四十四ヶ村を検分し三歩引きにした。三十日に綱紀が就封の暇を賜い、綱吉から御時服三重と御肴種々を、御台所からも御時服三重と鮮鯛一器を拝領した。同月に砺波郡と射水郡宛で宗旨や旦那寺を変更する場合の手続きに付き、他国他領から領内へ宗旨替えすることは願いの通りとする、養子や養子聟に入る者はその家が続くため養父の宗旨とする、嫁婚の女は夫と相談して決める、旦那寺が居住所から十里以上遠くて不都合なら近い寺へ替えてもよい、理由のない宗旨替えは認めない、と定め十村から指図を受けるよう令した。七月二十二日領内の米商人に米穀を高値誘導し隠匿することなく流通させるよう命じ、二十五日家中へも所蔵する米穀があれば売り払うよう指示する。金沢城下で困窮者から金沢町奉行へ訴えがあり、越中から毎日米を五・六十石ずつ金沢の米問屋へ運ぶことになっているのに、家中の者が家来を出して森下や津幡で買取っているとのこと。直ちにこのような行為の無いように厳命する。金沢では二十七日に地黄煎や飴、うどん・そば切・切むぎ・惣て干菓子・惣て生菓子・料理味噌の販売を来月まで禁じる(八月二日麦が流通し解除)。二十八日家中へ日の食事中一度は粥にするよう達す。三十日綱紀が帰国の途に就く。八月十一日に金沢へ着き二ノ丸が普請中のため蓮池邸に入ると旅装も解かず直ちに領民救済を命じ、十三日困窮者は非人小屋へ収容するよう告げる。十四日御算用場奉行小寺平左衛門と和田小右衛門を飢餓発生の責任を取らせて閉門に処した。十七日に救済方法を定め、まず高が無い者へ男四合・女二合を五十日支給、家が無い者はそこの大百姓の家に住まわす、高はあるが食べる物が無い者へは男四合・女二合を三十日支給、着物が無い者へは近在宿々の質物の古木綿の綿入れを一つずつ支給(その代銀は後日藩から支払う)、家が大破した者は十村が収容する、米が不足なら他国米を至急入れて一度に渡す、必要な物資は渡すので書き出しておくこと、幼少・極老・かたわもの等も十村が書き出して提出する、等を令し領内各地に実態調査のため奉行を足軽二人ずつ付けて派遣した。この内越中領では砺波郡に大屋武右衛門・入江與之介、射水郡へ伊藤権六・留水(富永とも)豊左衛門・新川郡へ谷七兵衛・堀左京・中村四兵衛・栗田権丞・塩川又助・堀孫左衛門、他に三ヶ国へ与力を四人ずつ、新川郡では御馬廻組外から矢野小源太・岩田弥助・多羅尾半八・稲垣八平を二手に分け見廻った。別に巡見使も派遣された。加賀藩が支出した御救米は八千九百十二石四斗九升六合に及び、対象人数は七万八千九百六十一人(男一万八千六百二十一人・女三万二千百十人・幼少者二万八千百三十二人)、着類下付が三万四千八十五人、その他も追々支給され、家は千百七十三軒を修復した。幸いこの年の作柄は良く、八月二十四日には能登郡宛で豊作のため予定通り貢納が命じられている。九月二十一日の報告では飢人六万千二百三十人・御救米八千百五十九石六斗九升、うち砺波郡一万五千三百八十七人に二千二百六十五石二斗七升、射水郡五千八百八十八人に八百二十四石四斗五升、新川郡二万四百七十三人に二千六百十六石五斗を支給したとある。八月二十二日みだりに伊勢参宮をしないよう命じ、二十八日二ノ丸殿閣の柱立を行って九月一日に御番所の入替をした。八日能登三郡と松任に宛て救済の意義を示し勤労を怠らないことを告げる。二十六日に二ノ丸で上棟式を行った。十月六日十村へ百姓を非人乞食にしないよう命じる。
明正上皇(本院御所、母方祖父徳川秀忠)が十一月十日に七十四歳で崩御し給い、十四日から五日間作事鳴物を停止し、綱紀は二十一日に江戸へ御馬廻土方與八、二十六日に京へ先筒頭小堀孫兵衛重長を派した。三日大坂御蔵屋敷で監査をするため会所奉行平野岡右衛門豊時と改作奉行佐藤忠左衛門成禮を遣わした。
十二月十五日綱紀は伺書の書き方について書込みや点または丸などは読みにくいのでしないことを命じる。十六日十村から年貢を皆済できずに高を捨てた百姓の処分法を示してほしいとの要望がある。十九日石黒源右衛門(七百五十石)が多額の借財のため窮地に陥り、綱紀は知行の一部を組頭に預けて返済方法を考えさせた。
同十年正月二十一日田地割を秋収の後に行うよう達した。二十八日加賀の十村から耕作結果が報告される。二月一日改作奉行が各郡で耕作状況を視察することを触れる。十六日綱紀が忠孝の者を上申するよう命じたため十村が請書を提出した。かつて(元禄三年七月)に狼を斬って処分された永山丹七郎は永山左京宅に預けられていたが、二十七日に息子の惣次郎を犬が襲い丹七郎は手鎗で突き惣次郎も脇差で斬った。そのため父子とも人持組松平主馬康満に預けられ四月四日の吟味で九日に五箇山流刑が決まり、二十一日に丹七郎は大崩嶋村・惣次郎は嶋村へ流される。閏二月四日鳶等の鳥巣を除く幕令を領内に触れた。三月十六日金沢市中に豚を放し飼いにし、暴れたら追い払ってよいが犬同様手荒な真似はしないように触れる。
二十六日大坂御蔵屋敷へ派遣されていた会所奉行等が帰国し、御蔵宿木屋五兵衛が御米代銀四千貫目を使い込み備前屋了牧も同様の行為をしていたことが発覚したため屋敷を没収し、木屋に替えて升屋市郎兵衛、備前屋に替えて辻次郎右衛門と井川善六に御蔵宿を命じ、木屋と升屋に任せていた御船雇裁許については木屋を除いて升屋と新たに具足屋七左衛門と鴻池新七に命じたことが報告された。
四月十六日加賀・石川・能美郡に宛て松・杉・桐・槻・樫で目通り八尺以上を録進させる。同月に家作・服飾・贈答・酒宴等を奢侈に陥らないよう戒める。魚津で永原治兵衛を金沢町奉行から転じて赴任させ、新設の魚津郡代(元は魚津城代)に任じた。料知二百石、与力五人と足軽四十五人(うち五人は手替附)を付して、小者五人を加えた(諸事起本)。五月十四日山廻と十村に松の保護を命じる。二十一日百姓に作物の種は良いものだけを選んで保存しておくことを指示した。同月に幕府は猪・鹿・猿が田畑を荒らす実態を鑑み人馬に障るなら玉込鉄炮で打つことを認め、領内でもこれを触れた。六月十日刑を受けた百姓の財産について、疵付(墨入)追放や斬罪なら家財農具共に十分の一を下げ渡す、疵付ではない追放なら家財を下す、追出に処されたのであれば高や農具を取り上げること等を確認した。十六日上方へ町方娘・妻・後家で参詣を希望する場合は、若い者なら禁じ年寄の信心なら許可すると達す。二十日砺波郡と射水郡へ宛て宗門を変更する際の心得を確認した。二十六日二ノ丸殿閣が成り、綱紀は移徒を能で祝った。
七月十日蔵宿の妻子が旅行する際は届出るよう達し、綱紀は十三日金沢を発って二十五日に江戸へ着く。二十八日登営して謝し、八月六日値が下がった油種の領外移出の是非に付き石川・加賀郡の十村等から意見を聞く。十二日百姓へ用銀調達について説明し、大坂へ千石廻した代銀で元利を返済すると約す。十四日船の貸借に関する争いを防ぐため加賀・石川・能登に宛て船舶の賃貸を禁じた。二十日盗物を染めて分からなくすることを防ぐため、加賀三郡に宛て紺屋の調査と紺屋以外で墨染注文に応じる際は詳細に記帳することを命じた。九月四日寺庵の移転を禁じる。十六日幕府が飲酒を抑制するため酒に税をかけ領主へ納めることを令したことを触れる。十八日加賀藩はこれを受けて酒造業者に運上を課すので酒造高を届けるよう令す。十一月二十八日にこの細則を定め、運上は売った値段の五割、質の善悪で三品に分ける等が決められる。
十月八日綱吉が明日に上野へ赴くが江戸邸内での火の使用は通常で良いと告げる。十一月十一日綱紀は御三家や松平頼純・陸奥梁川松平出雲守善昌(尾張光友長男だが側室の子として三男扱い)・松平頼常・老中格柳沢保明と懇意の伊勢津藤堂和泉守高久・松平頼隆・松平頼貞・上野厩橋酒井河内守忠挙(父は酒井忠清)と綱吉の論語の講書を拝聴し能を観る。綱吉から金入五巻・錦二巻・純子(緞子か)三巻を賜った。二十八日米作不良のため米の検査を緩めるよう達し、十二月十一日在番や在住の者の年頭参賀は職務に障りが無い様にするよう令す。十九日綱吉が阿部遠江守正房を派し初めて寒気見舞に御檜重を綱紀に贈った。
十五、勝次郎の成長
同十一年正月五日俳諧に賞を掛けることを禁じた幕令(前年に発布)を触れる。十九日側室の岸が金沢城二ノ丸で男児を産む(雅十郎)。二月九日石川・加賀・能美郡十村宛に江戸で必要な資金が不足しているので今こそ第一のご奉公と考え用銀調達に応じてほしい、百貫目に御米千石ずつ大坂で別除けして返却に充てるつもりであると郡内の余裕のある者へ告げた。十九日利家百年忌法会執行(三月三日)に先立ち罪人の赦免方針を示す。四月十八日九歳になった勝次郎が能を学び始めた。二十九日金銀箔の使用停止の幕令を領内に触れる。五月二十六日登城した綱紀は綱吉の演じる能を観た。六月二日取次に当たる者へ心得を発し、取次ぐ際によく聞こえなくても問い返してはならない、噂は真偽が分からないのだから惑わされてはならない等を諭す。二十五日には近侍へも皆の手本となるのだから作法に心がけるよう諭した。
二十八日綱紀が登営すると黒書院で老中一同から綱吉の命が伝えられた。直姫を二条右大将綱平の子息正五位下少将吉忠へ嫁がせるようにとのことであった。綱紀は手放したくなかったが綱平に請われた桂昌院が綱吉に頼んだとも。六月二十九日就封の暇を受け、翌七月一日に登営し辞見し八月十九日に帰国の途に就く。
九月二十五日百姓が切高をしたら取り戻すことができないことを令す。十二月十四日綱紀の信任篤い儒者五十川剛伯の子(原九左衛門家来の娘との隠し子)元市郎(源一郎)が丁銀贋銀の罪で生駒右近直政に預けられ、次男の藤(当)三郎も奥村三郎脩運に預けられる。綱紀は翌年四月十五日に罪状を質すことを督促し、剛伯は能登曲村へ流し(当地で没)六月晦日に出発させる。剛伯の妻は京の親類へ戻し(剛伯は祖父の了庵以来京にいて寛文八年七月召抱)、元市郎とその子で四歳の岩之助は公事場で刎首に処した。
同十二年が二月十三日に雅十郎が夭折する。七月十六日金沢を発ち二十六日江戸へ着き、二十七日綱吉は戸田山城守を遣わし慰労するが、翌日の登城を体調が良くないとして断った。八月九日人身売買を禁じて男女とも雇用は年季を十年以内に限るとした幕令を領内に伝える。十三日綱紀はようやく参勤御礼の登営をした。閏九月六日幕府が諸士の分限(戸籍)を調査するのに応じ改役の大目付溝口修理へ綱紀の分を提出する。
加賀・能登・越中・近江 本国尾張 生国武蔵 筑前守子宰相松平加賀守
居城金沢 卯に五十七歳
二十九日には綱紀が体調不良であることを案じた綱吉が小姓組番頭酒井伊勢守忠英を遣わし慰問する。十月六日秤の検査のため守隋彦太郎が領内で検査する許可を求める。十一月二十一日節姫が広島の浅野吉長へ輿入した。御祝に綱吉と御台所・桂昌院からそれぞれ御樽三荷と御肴三種を賜う。二十六日登営した綱紀は御三家や松平頼常・酒井忠挙と共に綱吉の講書を拝聴し色羅紗五十間を拝領し、催された能では綱吉が白髭・松風・自然居士を、館林時代からの家臣黒田豊前守直邦(当時は旗本)が忠度を舞い、前田利直が猩々を演じた。同月耕作に関する心得を改作所から石川郡等の百姓へ出す。十二月一日節姫の婚儀を綱吉に謝して祝宴を催した。綱吉へは小袖三十、御台所に縮緬三十巻、三御丸の桂昌院へも同巻、五御丸(側室伝)に同二十巻、鶴姫(紀伊綱教室)と八重姫(御台所姪で綱吉養女)へも二十巻ずつを献じ、他に老中等へも進物する。節姫は書を良くし林大学頭が激賞するほどで和漢の書にも通じていた。子供との触れ合いを重視するが綱紀からは良く思われなかったという。二十六日綱紀が勝次郎と宴を張る。桂昌院は事前にこれを知り難波彩色の御盃台と西王母の御押物(落雁か)を贈り、この盃台で綱紀は勝次郎と酒宴をする(前田家雑録)。四海波の謡があり能三番では弓八幡・井筒(政隣記では羽衣)と勝次郎が猩々を舞った。二十八日勝次郎が浅野吉長を訪ね、自昌院(前田利常女で浅野光晟室)に縮緬五巻と箱肴一箱を進上した。
八日除雪で互いに協力し合うように諭した。二十三日に金沢で茶臼山が崩落し浅野川を塞いで家屋に被害が出る。翌年正月六日と八日に金沢町奉行へ救助要請があるが二月二日再び崩落、三月十一日浅野川の工事が成った。
同十三年正月五日、主上に秋子内親王が御降誕し給い、二月九日綱紀は祝賀のため足軽頭不破覚丞時喜を派す。三月六日犯罪者や破産者の残したものを闕所に処す際に、母や妻・娘に属する物はこれまで通り没収しないことを告げる。十三日江戸で勝次郎が弓初の儀を吉田左太夫茂清の指南で行った。四月二十日徳川家光の五十回忌に奥村壱岐と林助太夫を日光へ遣わした。五月十六日勝次郎が乗馬初の儀を南部黒の馬で絹川隼人之助上之の纏のもとに行う。六月三十日綱紀は就封の暇を受け七月一日に登営し辞見する。二十七日叔母の満姫が八十二歳で卒す。八月十四日捨子禁止の幕令を励行するよう領内に伝達した。十五日能美郡河原山村の百姓から幕府領二口村との争議を慶長十三年に遡ると上申する。二十一日加賀郡を河北郡、能登郡を鹿島郡と改めた。
九月四日に江戸を発ち十五日に金沢入りする。十月八日乞食が増えているため、元の居住地に送還することを議す。十一月八日石川郡松任町奉行の沿革、十日に能美郡木滑関所、十二日河北郡津幡町奉行・河原山関所・阿手関所・別宮奉行の沿革が報告され、十九日能登の釜清水村百姓に河原山と二口村の論所に関して尋ねた回答があり、両村の様子は村から見て分かっているが、あまりに入り組んでいてどちらに正当性があるか分かりかねるとのことであった。十二月三日加賀の十村にこれまで藩から米や銀を支援される場合を尋ねた回答があり、作食米や塩手米等を列挙した報告を受ける。八日綱吉から寒中見舞で宿継奉書を初めて受けた。同年に領内の町がどこなのか調査させると十四か所の報告がある。ただし周知の金沢・小松・高岡は省いている。越中では滑川・魚津・泊・氷見・守山・杉木新・津沢・今石動が挙げられ、井波について農民は村・商人は町と呼んでいるとのことであった。
同十四年正月に大聖寺の利直が生駒監物を金沢の奥村壱岐守に遣わし、藩の財政状況を説明させた。これまでは京都の町人肝煎に御登米を担保に借銀していたが打ち続く不作で御登米も減り、このことを銀主の肝煎に相談したら銀札の発行を求められた、これを利直に伝え調査すると姫路・白河・村上や側用人を勤めた松平伊賀守忠周(但馬国出石)や保科肥後守領分でも近年札遣をしていることが分かった、それで大聖寺でも札の発行を決めた時には協力をお願いし、その上で発令したいと考えているとの趣旨であった。二十日に利明は東野瀬兵衛を正式な使者として遣わし、綱紀に伝えた。
二十一日越後や信濃から新川郡小川温泉に入湯する者の通関手続きに付き、肴等商売で来る者は小川湯肝煎の切手で往来させることを達す。二十三日御先手物頭二人ずつに一年交代で喧嘩追掛者役を兼ねさせる。江戸では綱吉が臨邸することに決まり、二十四日銀子調達を河北・石川・能美郡の十村に依頼する(三月四日松任も入れて再度)。三十日十村等から作毛検査要請を秋土用入の日に定めたいと届があった。三月十三日家中へ利家以来の御感状提出を求める。十四日江戸城本丸大廊下で広島浅野分家赤穂の浅野長矩が御勅使饗応中に高家吉良義央に斬りつけ、激怒した綱吉は即日切腹を命じる。二日後の十六日浅野家に嫁いだ節姫が昨年末に安産したことを祝し能を催した。二十二日能美郡阿手村から幕府領小原村による侵害の報告があり、四月二十三日に和解に至る。
白山権現遷宮のため高野山南院が人足六人と馬二疋で京から来るが、五月二十七日に伝馬を準備するよう令す。三十日にも確認し、六月二日一行は小松に宿す。南院上下十一日、御寺僧二人(素田・昌春)・侍分二人(平野清兵衛・吉田奥之助)は三日に金沢へ入る。六月十六日小人・小者・仲間・小遣・長柄小人で代々が利家以来より仕えている者の由緒を上申させた。二十日利常の養女で古国府勝興寺常円(西本願寺良如連枝)に嫁いだ神谷式部長治女が卒す(婚礼の際に本多正長室春姫(利常女)妹として本多邸で婚礼準備をして出立した)。七月一日五箇山に始めて流された安見與八郎(金沢で遊女を集めて不法行為をしていた事件に連座)から上申がある。自刃したいのだがそれでは居所の人々や郡奉行に迷惑をかけてしまうので死刑にしてほしいとの願いであったが、狂乱はしていないものの本心を取り乱していると思われるので居所を徘徊させずに禁錮させることを決めた。
綱紀は十日に金沢を発ち二十一日江戸へ着く。二十六日十村等から晩稲が成熟したので、家中の放鷹は稲を倒しかねないので三十日間停止してほしいとの請願がある。八月十八日綱紀は参勤御礼の登営をする。二十八日老中秋元但馬守喬知に綱吉の御前に出る際に足が痛いため(脚気か)付薬をしたいのだが時節違いで足袋を履き難いので登城を遠慮したいと申し出る。秋元からは本日と来月一日の登城はしなくてよいとの返事であったが、綱吉は二十九日に時節関係なく足袋を履いたら良いとの意を示し、秋元は前田美作を呼んでこれを伝えた。そこで綱紀は九月一日に登営する。五日領内の城郭に関し調査を命じ、十五日幕府へ領内の絵図を納める。十月一日に八丈島の宇喜多氏へ五月一日に贈った白米六十俵(四斗入)の返書が着く。十一月二十日前田利家・利長や家臣の守った城について調査を命じる。
十二月二十二日江戸城で綱紀は明年の綱吉臨邸と敬姫を鳥取池田右衛門督吉泰に嫁がせる命を受けた。二十五日前田修理知頼(祖が前田知好、娘婿は大槻伝蔵)に明年二月の北野天満天神八百年祭の代拝を命じ一万燈を出すことを告げ、北野萬句会(加賀萬句)を興行する。二十六日池田吉泰が綱紀を訪問した。二十九日には綱紀が吉泰を訪れる。
十六、綱吉の御成
同十五年正月六日綱吉の御成に備えるため、本郷邸へ御成御殿を建設する作事惣奉行を前田美作孝行に命じた。二月十一日秋元但馬守に聞番戸田清太夫が呼ばれ、勝次郎が綱吉に御目見することを告げられる。そこで十三日に勝丸と改め玉井勘解由が伝達し翌日御表向で披露したが、秋元但馬守からは松平姓に改めるのであるから犬千代丸の方が良いのではないかとのこと。十五日綱紀も同意し様付けを決める。十六日に上屋敷で犬千代が御礼し太刀馬代を献じれば、綱紀からは御熨斗鮑と来国光御腰物代金二十五枚を下した。秋元はさらに幼名のような名前は改めるべきと勧め、綱紀も林大学頭に相談し、二十一日に利家以来伝わる又左衛門を通称、名を利興(最初に利挙を称したとも)とし、辰の刻に父子で老中と会って報告する。富山の利興には改名を要請していないことから一時的な名乗りであった。二十五日綱紀は菅公八百年祭で北野天満宮に青江恒次作の宝剣一鞘を参議正四位下行左近権中将兼加賀守菅原朝臣綱紀と記して神馬代白銀二千両と共に奉納し(代金十枚相当)、前田修理に代拝させる。承応二年の七百五十年祭の時には御代拝人が太刀を奉納した際に雷鳴振動の奇瑞があり、今回も雷鳴振動したとのことであった(加藩諸事雑記)。
二十八日又左衛門が綱紀と登営し綱吉に謁した。又左衛門は熨斗目・長袴、綱紀は熨斗目・半袴、御白書院で綱吉は又左衛門を側近くに召し懇ろに声をかけた。聞番戸田清太夫が又左衛門からの献上品目録を持参する。綱紀へは備前政光の太刀(金七枚五両相当)と小袖二十・白銀三百枚、御台所と桂昌院(同月に従一位藤原光子の称)・伝へそれぞれ白銀五十枚と綿百把、御小将高田久兵衛が鶴姫と八重姫へそれぞれ紗綾三十巻と御樽代千疋を持参した。同様に綱紀からは綱吉へ太刀馬代と小袖三十・干鯛一箱、御台所・桂昌院へ紗綾五十巻・御樽代千疋ずつ、伝へ三十巻と千疋、鶴姫と八重姫へ縮緬二十巻と千疋ずつを献じた。これ以外に老中・若年寄・御側衆・御奏者・御勘定奉行・町奉行・寺社奉行・御留守居衆・支配衆・御目付・御作事奉行・御屋敷奉行・御徒組頭横目・御徒目付・二之御丸坊主・御広間坊主・御数寄屋・御出入坊主子供・御玄関番・中之口番人・百人組与力・町見与力・二之御丸大番御徒頭・京都町奉行・二條御在番・大坂町奉行・大坂御在番・伏見町奉行・長崎奉行・御城女中衆・惣女中等へも進上物があった。
三月八日又左衛門が菊池十六郎を日光東照宮に派して代拝させ、綱紀と又左衛門は六日上野、七日増上寺、八日広徳寺と伝通院に詣で、九日御三家を訪ねた。十五日に又左衛門は駒込邸で綱紀を三汁三菜と御盃、御拍子一調一管で饗応した。四月二日林大学頭を招き又左衛門の学問初の儀を挙げ、二十二日大学頭から四書正宗八冊物一箱と御肴一箱を貰い受け、奥書院で読んだ後に御盃を出した。十八日幕府から綱吉が臨邸する日が二十六日と告げられた。二十四日に石川・河北・能美郡と松任宛に綱吉が臨む前後の火防を厳重にするよう達す。二十五日に登城すると諸大夫を四人にしてよいとの伝達があり、前田主税を近江守、横山左衛門を山城守にすることを決めた。
綱吉が老中・御側衆・大目付等を率いて二十六日に本郷邸へ臨んだ。幕府方は邸内を大番と書院番の両番頭・新番頭・徒頭組が、諸門には持筒と先手頭が警護する。綱紀と又左衛門が長袴で迎え、一族からは浅野綱長・同吉泰・同吉長・同長澄・前田利直・同利興・同利昌・同利英が門外で拝し奉る。その中を綱吉は乗物を降り綱紀の先導で奥書院へ入った。その後綱吉と綱紀・又左衛門や参列した一族で下賜と献上があり、綱吉は一族妻や仙渓院尼(保科正経正室・利常女)や重臣へも賜う。屏風や諸道具には甲府・御三家・諸大名からの寄贈もあった。能と仕舞で綱吉が高砂・羽衣・国栖、綱紀は自然居士と祝言老松、又左衛門は芦刈、その他浅野綱長・吉泰・吉長が舞った。饗応は前日朝から当日の夕方まで続き、三万人程をもてなすという大掛かりな行事であった。翌日綱紀は御礼に登城し、桂昌院や伝・鶴姫・八重姫から綿等を賜う。五月十八日金沢でこれら一連の行事が終了したことを告げ、二十二日家中や一門を慰労する宴を張った。同月綱紀は諸役人の勤めに関し、直接伝えに来ればよいものを伝言するため間違いが起きているとして、直接の奉公を望むべき気概を持たぬ者は忠義とは言えないと断じ諭す。
十七、前田吉治の元服
六月九日十三歳の又左衛門は首服(元服)のため朝五ツ半時に綱紀と共に登城し、九ツ時老中と会って命を受ける。儀式では正四位下左近権少将兼若狭守に叙任され、吉治の諱を綱吉から拝領した。御熨斗・御吸物と御盃を頂戴し、御腰物二字国俊(銀七百貫相当)を直に拝領する。吉治からは太刀信房(五百貫相当)と金五十枚・単帷子二十を、綱紀からは太刀一腰と綿二百把・白金百枚を献じた。七月十日綱紀に就封の暇が与えられ、十一日御礼登城する。金沢では十三日に吉治を憚り若狭屋と称する屋号を改めさせた。八月三日一柳直興が金沢で卒す。七十九歳であった。従者の高嶺十郎左衛門・崎田市三郎・斎藤八丞を二百石、崎田貞之進を百石で召抱えた。
閏八月九日に綱紀が江戸を発ち、途中信濃才川で洪水があり丹波島に三日間逗留して二十二日金沢へ入った。十一月四日重ねて生類憐みの幕令を領内に伝える。十二月二日鹿島郡七尾を所口と改め、同月には領内の村名を確定させた。うち越中では砺波郡中の江村を中江村・城ケ端村を城端村・鷲加嶋村を鷲嶋村、射水郡岩ケ瀬村は岩瀬村(実際は岩ケ瀬村)、新川郡秋ケ嶋村を秋嶋村とする。十二月十四日江戸では改易された赤穂浅野遺臣による高家隠居吉良義央邸への討ち入りがあり、浅野家とは縁の深い前田家にとって他人事ではなかった。富山藩でも家中の奥村杢左衛門(前田正甫側室赤尾氏の再嫁先)と不破太郎左衛門は赤穂の大石内蔵助(妻は佐々成政末裔)と親戚関係で、正甫は赤穂浪士の討ち入りに感心しながら、討入首領大石良雄切腹の報が伝わった翌十六年二月には両名の出仕を遠慮させざるを得なかった。
同十六年正月二日吉治が初めて年頭祝賀のため江戸城に登り、大広間で御礼を申し上げ着座して御盃を頂戴し御時服二を拝領して四ツ時過ぎ下城した。この日は雪のため老中の出仕が延期になり会えなかった。綱紀は御馬廻番頭中黒六左衛門を十六日に江戸へ遣わし、二十六日に着くと夜に吉治の前で口上を伝えた。吉治は二月六日返答を直に伝え、中黒は七日に発足して十八日金沢へ着く。
正月十七日火事の際に家中が騒擾を見物するようなことを禁じ、町中や子供にも見物させないよう達す。二月二十八日河北郡から今石動に馬で引かせて入る米は現銀で取引するよう命じた。同月には白山麓の幕府領尾添村の宝代坊より越智大徳泰澄大師が養老元年に開山以来千年に当たるとして、社頭再興のため白山神輿を奉じて江戸へ上り開帳したいと幕府寺社奉行へ届け出があった。そこで三月二日石川・河北郡に警戒を伝え、三日人足・馬・宿の手配を郡奉行へ指示する。神輿は四日に尾添村を発し夜には石川郡下白山に宿す。
四月十六日富五郎の諱を利章とする。五月二十日綱紀の子女達が二十一・二十二日の内に粟ヶ崎を訪れるので警備を命じた。七月六日綱吉から暑気見舞の宿継奉書を初めて受ける。十一日前田貞親を小松城代に任じた。十四日綱紀は金沢を発し二十五日に江戸へ着いて二十八日登城して謝す。十月家中儒者の室鳩巣が金沢で赤穂浪士を評した「義人録」を著した。十一月一日御郡所詰番の御扶持人十村に命じ毎月三回の出勤を改め六回(一・五・十一・十五・二十一・二十五日)とし朝五ツ時より出ること、番代が詰める場合は特に厳守することを達した。二十三日関東で大地震が発生し江戸城でも被害が出る。領内でも少し感じられた。二十九日小石川水戸藩邸から出た火が本郷邸に類焼する。綱吉は十二月一日に慰問の使者を遣わした。これらの出来事を知らせる早飛脚が九日金沢へ着く。それでも二十八日吉治の袖留の儀は予定通り執行される。
十八、徳川綱吉時代の終焉
①徳川家宣の西の丸入り
同十七(一七〇四)年正月二日吉治は登城して新年を賀し、御盃・御時服を拝領する。二十一日綱紀は風水害で作毛を損じた時には直ちに十村等が視察して報告するよう命じる。二十八日吉治が江戸城に月次出仕を許された。二月十一日浅野吉長女で綱紀外孫の窕姫を綱紀の養女とすることが許可される。三月十三日宝永への改元が布告される。前年の地震の故であった。
八丈島の宇喜多氏に前年七十俵の白米(四斗入)を贈るが下田の大波で流されてしまったため、三月十七日幕府に改めて許可を求める。五月十四日町人屋号や看板・商品名に加賀の語を用いることを禁じる。十五日窕姫が江戸へ来た。二十日夜に本郷邸外天沢寺前の町井戸に狐が溺死していたのを御番人足軽が見つけて割場奉行へ報告し横目が検分、生類憐みの令があるため聞番戸田清太夫が幕府へ伝えると御徒目付二人が来て狐を犬医者に見せるよう指示するが無意味なことであった。足軽が木の箱に詰め埋葬するが御徒目付は自分たちが来た意味が無い、報告が遅い、書類を提出するように命じたため老中秋元但馬守へ見つけた足軽の口書を出すが、秋元は江戸家老の署名を入れ足軽たちの非を認めることを求めるが、綱紀は足軽を謹慎させつつも秋元に抗議して撤回させ謹慎も解く。二十八日在獄中に未決のまま病没した者の罪は問わないことにした。同月に改作奉行等より十村の職務について、子や手代を用いて弱い村を成り立つように心を尽くし油断の無い様にせよ等と心得を発す。六月三十日稲葉丹後守が七ツ時に来て綱紀へ就封の暇を伝える。稲葉には御料理を断られたので葛切と御吸物を出した。
七月一日辞見の予定が綱吉の病気で延期になる。四日綱吉から暑気見舞の使者があり檜重御菓子を拝領する。八日本郷邸が火災以来まだ本建築をしていないため御仮屋と称していたが、御殿と言うよう達した。十一日登営し辞見、二十五日に江戸を出立し名立駅名立寺で昼休みを初めてとって八月九日に金沢へ入った。七日白山神輿が領内を通過するため、人馬を滞らせない、川越人足を用意する、神輿と遭遇したら笠を取り脇へ除く等を伝える。二十七日大聖寺から利直が来たため奥書院で三汁九菜を出して饗応し、御刀備長光一腰代金二十枚を進じた。九月一日幕府が当年と来年の酒造を元禄十年の五分の一にし当年暮は寒作以外の新酒を一切停止せよ、と令したことを領内に伝達する。二十八日村名・社寺・城址・名勝等の来歴を調査させる。
十二月五日吉治が登営すると、綱吉(四月鶴姫が卒)の後継に四十三歳の甲府中納言綱豊が決まり、徳川家宣として西の丸へ移ることを告げられた。急ぎ翌日富田勝左衛門を金沢へ発し十一日着、老中からは宿次奉書が出され十日夜に金沢へ到着したため年寄中登城する。二十一日吉治が登城して家宣が養嗣子になったことを祝す。二十九日には登営した吉治が綱吉の意向で下城して前髪を取った。同年加賀藩が所領を給する寺社を調査させた。うち瑞龍寺三百石・繁久寺五十石・永伝寺五十石と二十三石五斗六升六合出分知御代官裁許・東漸院五十石・林洞庵五十石・亀占庵三十石・法性庵三十石・慶高寺二十俵地・大岩山日石寺二十石・埴生神社六十俵地・勝興寺二百石・国泰寺十二石三斗九升・氷見光禅寺六石八斗・安居寺二十石・法福寺百俵地・二上山養老寺六石七斗九升二合・芦峅寺百俵地・岩峅寺百俵地・高岡稲荷神主十二石五斗・二見大夫十石五斗、二見大夫(伊勢大神宮神職か)には越中砺波浅地の神明社領を村免五ツ二歩だが二ツ定免で下され御引免等の指引は無く二見家来が来て支配するとある。
同二(一七〇五)年正月二日吉治が登営して綱吉に新年の賀を言上した後に、西の丸へ赴き家宣へも年頭初の御礼を申し上げた。四日綱紀は本多政長と前田孝貞に対し老体のため殊に雪で怪我でもしたら壮年と違って即病根になりかねず、二人とも達者とはいえ心許無きこともある、として城内での乗物使用を許可した。二十四日綱紀が金沢から江戸や上方への運送について尋ねたことへ、湯原主膳と小塚八右衛門から次のような内容を回答した。江戸中荷物は荷物が多く五・六十年前に始めて元禄十年から十間町を拠点に毎月九日・十九日・二十九日を出日と定め、元禄十三年よりは御荷物一貫目まで賃金不要で運んでいる。荷物が少ない江戸三度飛脚は元禄六年から尾張町を拠点に毎月四日・十四日・二十四日を出日と定め、その他は江戸中荷物と同様。京都へ向かう京都中使も五・六十年前から活動し元禄四年から御門前町を拠点に毎月五日・十日・十五日・二十日・二十五日・晦日が出日と定め、御荷物三貫目までは賃金不要としている。綱紀は二十八日にも小松町奉行の沿革に関し尋ねた回答を得ている。
二月七日前田直堅が利家着用の脚絆二品を献納したことに謝し、十一日運送業者から改めて次のような回答を得た。中荷物は以前江戸大使といって荷物が多く八人で担当し、やがて少々の荷物を運ぶ中荷物が出来て六人で担当する。しかし元禄十年に金沢と江戸に荷物集積所を設けて大小荷物を一つに統合して十四人で担当するようにし、それ以来中荷物と名乗っている(平尾屋伊右エ門と戸水屋長兵衛が回答)。三度飛脚は毎月三度ずつ飛脚を出し金沢と江戸を御状箱と少々の御進物を持参することが役目で江戸三度飛脚と称し、その後になって出日に三駄ずつ荷物を運ぶことにしたが名前は三度飛脚のままである(山崎屋三郎右衛門と水口屋弥右衛門が回答)。中使というのは以前大使といい大量の荷物を持参し、別に中使があって書状や少々の荷物等を京と金沢間で運んでいたところ、二十年以前から大使の役割が減ったため元禄四年にお断りし、中使荷物集所を設けて八年以前から毎月六度ずつ出日を決めて運んでいるが名称は中使のままである(安田屋忠三郎の回答)。この頃の江戸中荷物は十四人、江戸三度飛脚は十三人、京都中使は二十二人で運営している。
三月十日利直が江戸へ参勤のため加賀藩領を通るので通行場所の掃除を指示し、十六日金沢城で利直と対面した。五日に綱吉が右大臣、家宣が権大納言に昇任したため、綱紀は御馬廻佐々木左兵衛定賢を江戸に遣わし賀した。
②財政収支計上
四月二十八日には収支を計上して借銀返済の方法を講じる材料とする。
二十五万千七十七石 御収納米並御貸米取立共前五ヶ年平均 一ヶ年御歳入米高
六万石 御詰米高六万五千石の内五千石は古米のため欠米引
〆三十一万千七十石 前年御収納米の内所々御詰米
内 五千十三石 御知行御蔵返米 但前五ヶ年平均 一ヶ年当り
二万七千七百三十石 引免引高不足米給人に迄下され分 一ヶ年当り
四万四千三百十九石 御扶持方並御下行米一ヶ年分 但中勘図り
一万五千四百五十二石 塩手米(塩士に貸与した米)一ヶ年分
百四十九石 御下台所並搗屋渡り米一ヶ年分
二千五百四十四石 索麪(素麺のこと)並海苔取代米・御飼鳥餌米
且又非人飯米共一ヶ年分
六万五千石 御詰米 但翌年計立申時分欠米共
一万石 御領国中御貸米願申時分入用のため余米
三万三千七十五石 江戸御廻米 但運賃共
十万七千七百九十石 大坂御廻米 但運賃共
〆
千九百三十五貫五十目 江戸御廻米高三万三千七十五石の内運賃並船破損海中捨り米・濡米等前五ヶ年平均にし三千二百石 且又彼地御寺方へ遣される米百五石を引いて残り二万九千七百七十石御払代 石六十五匁ずつ中勘図
五千百十四貫七百二十五匁 大坂御登米十七万七千七百九十石の内運賃並船破損海中捨り米・濡米等前五ヶ年平均にし一万三千百六十石五斗 且又彼地御寺方御合力米千六百三十四石五斗を引いて残り九万二千九百九十五石御払代 石五十五匁ずつ中勘図
二十八貫二百十五匁 江戸御廻米・大坂御登米 蔵入の時分米改での損米並升廻極不足分、船頭より出申す欠米 前五ヶ年平均にし、右江戸御廻米・大坂御登米にあたる米高六百三十二石の内百四十二石大坂蔵入米持賃引、残り四百九十石御払米代銀 但右両所御払米値段図り
三千八百四十一貫二百十二匁 諸方御土蔵上納銀一ヶ年分
四十六貫五百五十目 江戸御土蔵上納銀一ヶ年分
七十六貫九百七十一匁 江州御知行米代並夫銀等 且又御貸銀返上共、京都御土蔵上納銀一ヶ年分
〆一万千四十二貫七百二十三匁
内 八千百六貫八百目 御国・江戸・京・大坂御遣方 前五ヶ年平均にし一ヶ年分十九貫二百目、辻次郎左衛門(京の町人大名貸し・後に破綻)為替敷銀(前渡しで貸与)二百貫目一ヶ年利足
千二百八十四貫五十四匁 御国・江戸・京都御借銀高一万九千二百六十貫八百十四匁元銀、年賦返済一ヶ年分
御払方〆九千四百十貫五十四匁
入払指引し一ヶ年分残銀千六百三十二貫六百六十九匁 不時御入用並御成御入用御 払方に用いる銀
閏四月に金沢城内で奇妙な蛇が出現したと噂になる。一匹が本丸下の堀上路辺りに現れ長さ四尺で白色、もう一匹が石川門一・二の門石垣下で青色に光り首は猫に似ていたとのこと。五月に越前勝山の小笠原信辰が領内を通って江戸へ参勤するため取扱いを指示する。六月二十八日江戸で一位尼公こと桂昌院(藤原光子や宗子)が七十九歳で寂し、金沢城下で普請鳴物を七月三日まで停止させる。
七月四日綱紀は金沢を発ち、途中九日朝に信濃善行寺から御発駕の時分溝口七太夫組の御歩渡辺八郎左衛門が御茶弁当の鍵を落とし、探して見つけ夜に田中御旅館まで持参するが無沙汰千万と金沢へ戻って閉門になる。桶川駅では綱吉が来月十三日まで御忌中(忌明は来年六月十日)なので来客や使者と会えないことの達しがあり、十三日江戸へ着くと十六日に土屋相模守が参勤の慰問に遣わされたが御忌中のため献上などは遠慮し、使者へ御茶とたばこを出すにとどめた。八月七日に吉治を伴い登営すると御菓子や良ければ精進料理も出すので残るようにとのこと、暮頃に御菓子までいただき退出する。
八月十一日改作奉行から鹿島郡宛で、豊作だからといって百姓が米穀を浪費することを戒めた。二十二日キリシタン宗徒や類族の監督を郡奉行に令し、死亡の際には検視し塩詰にして檀那寺に預け置くこと等を達した。二十八日綱紀は登営し忌明けの綱吉に謁して参勤の御礼をし、家宣に御目見して直に御熨斗を頂戴した。九月二十一日から清泰院の五十回忌を伝通院と金沢の如来寺で執行し、幕府から稲葉丹後守が伝通院に遣わされ香銀百枚を供した。十月十三日小松城代の前田貞親が卒す。十七日夜には賊が金沢城内の会所役銀御土蔵に入り込み銀一箱十貫目を盗む事件が起こる。番人の定番御歩河副十郎右衛門と野垣権治は十八日から遠慮に処し、役銀奉行の原九郎三郎が御銀改めを提案し、御横目伊藤平太夫が二十日に改めた。十一月金沢と小松間に十度飛脚を開始する。十二月二十一日寺社や家中に下付する門松が例年百七十八本であったが今年は減らし、神護寺六本・宝円寺・天徳院・如来寺・玉泉寺・経王子には二本ずつの計十六本とした。
③吉治疱瘡・正甫卒去
江戸では吉治が二十六日に発熱し、二十九日夜疱瘡と診断される。橘宗仙院等が治療に当たり、御祈祷を伊勢・江戸山王・金沢や下白山観音で行い、綱紀は斎藤吉左衛門を派して御寝巻二・御蒲団を、六日に青木與右衛門に御巾着二十三・絨(絨毯)五掛と御肴を持たせた。同三年正月二日前田権左が江戸城で御太刀を献上し、六日に綱吉から御奏者番池田丹波守が慰問のため遣わされる。幸い回復に向かい、十一日には酒湯に浴すことができ、御客を大書院で御料理や御盃でもてなし宝生大夫父子等による小謡も希望した。十三日に綱吉から祝儀があり、若年寄久世大和守が御時服十箱・肴一種・御樽一荷と綱紀へも御肴を下した。家宣からも御奏者番池田丹後守が遣わされ御箱肴一種・御樽一荷と綱紀への御箱肴一種を下す。綱紀からは玉井勘解由を派して綿百把・三種・千疋を、吉治は二種・千疋を献上する。治療に当たった橘宗仙院へは吉治から白銀百枚・小袖五・干鯛一箱、綱紀からも金十枚・綿五十把・塩鯛を贈られ、橘隆庵へ紗綾十巻と鯣一箱、小嶋昌怡や増田寿得へは白銀二十枚ずつ、その他老臣や家中へも下された。
二月二日百姓へ家中の収納米を皆済した時に受ける印形については届けた物を用いるように触れる。二十六日領国・江戸・上方での借銀と銀主を調査する。
御領国中より御借銀元利高一万四百七十九貫八百七十九匁六分四厘
内五百二十八貫三百五十五匁二分五厘 去年より年譜割符銀当り去暮渡下され
残り九千九百五十一貫五百二十四匁三分九厘 当正月に残銀 能州御郡奉行支配御借銀の内相洩れた十六貫百七十目銀子はこの外にあり
京都御借銀元利高一万二千百六十六貫二百目
内八百二十一貫二百十三匁七分二厘 去年より年譜(年賦)割符銀当り去暮渡下され残り一万千三百四十四貫九百八十六匁二分八厘 当正月に残銀 内二百貫目辻次郎左衛門江戸為替敷銀
江戸御借銀の覚
金小判五百両代二十九貫目 江島屋太郎次 この利七貫四百二十四匁
元禄十六年正月より去年七月までの利足銀 但江戸の内いまだ年譜相極申さず候へども京都・御共去年七月までの利足相立候付、先その通相図申候
金小判千百六十五両代六十七貫五百七十目 中島屋五兵衛
この利十七貫二百九十七匁九分二厘 右同断
金小判千両代五十八貫目 升屋治左衛門 この利十四貫八百四十八匁 右同断
金小判百五十両代八貫七百目 張付師仁右衛門
この利二貫二百二十七匁二分 右同断
金小判四百両代
二十三貫二百目 谷口屋善通 この利五貫九百三十九匁二分 右同断
二百貫目 江嶋屋太郎次 この利四十四貫四百目 江戸為替敷銀
富山で前田正甫が鳩尾(みぞおち)に腫物が出来て臥せり、十六日綱紀は江戸から御大小将里見孫太夫を見舞に派した。一見回復に向かっていたようなので四月十二日には富山の家老近藤主計と小塚将監へ書状で安堵したが保養油断無くと伝えた。しかし十七日に卒す。五十八歳であった。、江戸の利興は御暇を願って十四日に江戸を発ったが、十九日滑川で逝去を知り富山へは戻らず新庄に逗留し、二十八日江戸へ引き返した。利興に宛てた遺言状には、家督仰付けがあったら藩祖利次の定めたことを守り、自分(正甫)の行ったことの悪い点は守らなくてよい、縁談があっても綱紀の御息女の内からにすること、掃部・又三郎(利隆)・又五郎の三人は家来として綱紀に頼むこと等が記されていた。五月四日に綱紀は金沢から人持組今枝民部を富山へ派して香典に白銀五十枚、吉治は御先手物頭津田吉右衛門を派して白銀二十枚を供えた。
四月中に綱紀は平士中の序列を明確にし、御小将・御馬廻・定番御馬廻・組外の順番、同身代なら知行高に仰付候年月次第とする。特に御小将は特別であり知行高とは関係なく上位であることが示され、小将の中では奥御小将・表御小将・大御小将の順序とする。五月二十日初白瓜・茄子・熟瓜は藩が必要分を買い入れるまで商品化しないよう達した。二十六日京の菅真静(備前出身の国学者)が江戸の綱紀に招かれ、大書院で源氏物語の講釈をする。六月十九日にも七ツ時から暮まで源氏物語を講じている。
六月六日前田利興が富山の継承を仰せ付けられる。綱吉が未だ御忌中のため土屋相模守の屋敷で命があり、御礼登城は桂昌院の一周忌法会の終了を待っていたため遅れ、二十八日に利興は近藤主計・富田頼母・瀧川玄蕃・村伝蔵・小塚将監を伴い登城し御目見した。二十九日利興は富田頼母を綱紀に派して謝し御太刀馬代・御樽二荷・御箱肴四種を、吉治へ瀧川図書を派して御太刀馬代・御樽一荷・御箱肴両種を進上し、大書院で富田と瀧川へ綱紀と吉治から声がかけられ、何か拝領したい物はあるなら願い出よとの尋ねにそのつもりはないと答える。七月六日富田・瀧川と近藤主計・小塚将監が綱紀に御太刀を献じて大書院で一門に御目見した。六月二十九日綱紀は就封の暇を受け(上使井上河内守)、七月一日に登営し辞見し、二日家宣からも上使本多伯耆守が遣わされた。十一日利興を大書院に招いて御盃と御腰物備前雲次代金三百五十貫を進め、宝生大夫父子の長袴での小謡や御拍子・一調物・仕舞で饗応した。
八月四日綱紀は江戸を発ち、十五日金沢へ入る。十月二日領内の温泉の沿革を調査させ、十二月二十八日は家宣生母長昌院(北条旧臣田中勝宗女)忌日のため綱紀も精進日として鷹狩を行ったら処罰すると達した。
④上方の大地震
同四年正月十九日前田孝貞が八十歳に達したことを祝し(数えで八十一歳)、金十枚・綿五十把・鶴一羽・御杖・鯣一箱・昆布一箱・御樽一荷を賜う(八月十九日卒)。二十一日豊姫と前田孝資の結納があり、孝資は御帯二筋・小袖二重紅綾・御樽三荷・雉子一懸・昆布一折十二把・鯣一折十二把、綱紀へ御小袖二・御太刀馬代・御樽二荷・生鯛二・鴨二羽を折にして、また生母の皆へは縮緬三巻、惣中へ銀十四枚、等を贈った。
三月二十九日非人小屋の収容人数が減って二月二十五日時点で二千七十七人となったため、南の七筋を壊してその古木で小屋の破損場所を修復したいとの願いが出され、本多安房守から許可を出した。四月十五日富五郎(利章)が小立野の屋敷へ移った。二十日五十歳にならない女は下女として参宮や上京で召連れる名目でも領外に出ることを禁じる。二十六日豊姫が前田孝資に嫁いだため、その儀式を五月十五日まで行う。最終日までの二日には使役以上へ能を観覧させた。二十三日には婚儀と来月に迫った家宣側室お古牟の方の出産(七月十日家千代を出産するが九月夭折)を祝し、さらには桂昌院の三回忌とも重なったため閉門・蟄居・遠慮等の者を赦免した。これにより家政治まらざるを以て新川郡大浦村の蟄居していた元御大小将長谷川内匠重恒を、本知千石で御馬廻に戻した。四月二十八日に綱紀が金沢に訪ねてきた黄檗宗僧侶の悦山と懇意になり、六月十五日悦山は書で綱紀に厚遇を謝した。七月十日富五郎が富丸と改め翌日前髪を取る。綱紀は秋まで富丸殿と称すよう告げる。
十一日江戸で家千代が誕生したため早飛脚が金沢へ急ぐ。十三日戌下刻に綱紀が金沢を発ち、利章は津幡まで見送った。十四日高岡で早飛脚を見て、金沢へ御祝儀使を今枝民部に指示して出発を急がせ、今枝は十五日亥ノ刻に発って二十二日江戸へ着いて翌日登城する。吉治も十一日には御小将吉野善八郎に命じて綱紀へ知らせに出し、十五日岩瀬で綱紀へ口上を伝えたら魚津まで同道するよう命じられ、御旅館で懇ろに御意と拝領物を受け、綱紀の返事をもらって急ぎ江戸へ戻った。
二十五日に江戸へ着いた綱紀は、尾添村の宝代坊に領国内での勧進・托鉢を許したことを告げる。二十八日登営し参勤を謝し、西ノ丸で家宣に祝意を言上した。九月六日利章と敬姫が江戸へ赴くため、郡奉行に命じて津幡での宿舎等を準備させる。十月一日に利章と敬姫が金沢を出立して、一日急いで二十一日江戸へ着いた。利章は上屋敷、敬姫は中屋敷に入る。
十月四日大地震が京阪神を中心に発生し、北陸も震動する。
⑤従三位昇叙
十三日に酒造業を新たに開業することを禁じた幕令を触れる。十一月十八日領内での洪水や大風を考慮し、収納米の検査を緩和するよう令した。二十三日からは富士山が噴火し大量の灰は江戸へも達した。二十八日金沢で長時連に嫁いでいた恭姫(綱紀養女)が体調不良で食事も滞り、十二月一日早飛脚を江戸へ送り七日に綱紀へ達した。すぐに御大小将茨木貞右衛門を遣わすが雪でなかなか進めず十九日に金沢へ入る。三井鴻庵や山脇明庵・八十嶋寿三・南保玄隆が診察に当たったが三日に卒していた。十三日早飛脚が江戸へ着いた。しかし綱紀は悲しみ調子を崩していたが、十七日江戸城から奉書が届き翌日登城せよとの命を受ける。臥せっていた綱紀は長髪のため登城を遠慮しようとしたが、老中秋元但馬守からは登城できないなら自分の屋敷に来てほしいとのこと。だが綱紀はこれも断った。この時には紀伊藩の徳川吉宗へも登城の命があり、権中納言に昇任することが伝達されていた。二十七日改めて綱紀に奉書が届き、今度は断らずに辰ノ刻に登城すると、従三位への昇任が伝えられる。西ノ丸の家宣へも御挨拶し、同五年正月六日に改めて登営して綱吉に御礼を言上して、定利の太刀代金十枚・金十枚・時服二十を献上、御台所へは白銀五十枚、家宣へ備前真長の太刀代金七枚五両・金五枚・時服十、正室(近衛熈子)へは白銀三十五枚、八重姫と伝へは同三十枚ずつを献じ、その他幕閣各所へも進上した。九日位記口宣を受領するため使者として小幡外記と奉書持参御使者大小将内藤十兵衛を京に発した。
七日に幕府は武蔵・相模・駿河等で富士山の灰により被害が甚大な村を救済するため、幕臣や諸大名に高百石当たり金二両ずつ納めることを命じた。その際に万石以上では領民からの納付を待っていると遅延するだろうから領主が立て替えて三月まで、万石未満は六月までに納めることが指示された。
二月四日家中に緩みが目立ち、集まって伎芸の者を呼び博奕をする等の行為が目に余り、これを厳禁する。十日伝馬肝煎與右衛門から駄賃増加の要求がある。伝馬に積載する荷物の規定では、軽尻伝馬乗下五貫目・荷軽尻二十貫目・乗懸の乗下五貫目から二十貫目まで、一駄荷物は四十貫目まで、と決められているにも関わらず重量越えの荷物を持ち込み強要する者もいて迷惑している、今後は軽尻でも一駄単位で駄賃を貰い受けたい、とのことであり重臣より諸頭へ厳重に守るよう達しがあった。この頃尾張徳川家から吉治への縁組の話があり、老中へ相談していたところ、二月二十八日に綱吉から進めよとの命がある。相手は徳川吉通の妹松姫十歳である。
三月八日京で大火が発生し、禁裏御所・仙洞御所・女院御所・東宮御所が炎上し、九条家・鷹司家等の公家の屋敷や寺院(佛光寺や下鴨神社等)・町屋等、西は油小路通・北は今出川通・東は河原町通・南は錦小路通に囲まれた上京を中心に四百十七ヶ町、一万三百五十一軒を焼いた。九日綱紀は足軽頭村田縫殿右衛門景慶を京へ急派し、禁裏御所へ白布五十端、仙洞御所へ同三十端を献上する。二十七日吉治との婚儀が進められていた尾張の松姫が綱吉の養女になる。二十五日利章に松平の称が許され、二十七日老中と会見し、二十八日綱吉に謁して太刀馬代金一枚・時服五・包熨斗、家宣へ太刀馬代銀二十枚、御台所へ縮緬紅白十巻・包熨斗、家宣正室へ同七巻を献じ、その他幕閣・女中や寺社へも進上した。西ノ丸へは利直が同道する。綱紀も使者を発して綱吉に綿二百把、家宣へ同百把を献上し、その他各所へも進上した。家中へは奥村伊予守から利章の通称を造酒之丞に改めることが伝達される。
二十九日綱紀は本郷邸が竣成したので移り、富士山の灰を除去するため幕府へ二万五百両を納める。幕府は全国を千八百七十三万二百石と見積もり三十七万四千六百四両を徴収できると考えていたが(改作雑集録)、同年中に金四十八万八千七百七十両余と銀一貫八百七十目余が集まり、被災地へは六万二千五百両余を廻して残りは他に用いた(『蠧余一得』)とも。加賀藩では領民には課さずに全て藩庫より支出する。四月一日家中の御徒杉本三之丞倅九十郎(十六歳)と紺屋の者が碁を打っていると、火矢方御細工人小川七ノ丞倅太郎三郎(十三歳)が助言無用と言ったのに口を挟んできた。杉本が三番負けて小川と口論になり、斬ってしまう。そのため二十九日切腹が命ぜられた。
敬姫が六日に因幡池田吉明に嫁し、綱吉・御台所・側室伝や家宣と正室から姫や綱紀に三種二荷等の賜物があった。九日には登営した吉治に松姫との婚儀が命ぜられた。十九日松姫のための御守殿建築の地鎮祭を執行し、十月に竣成した。五月十八日年寄から家中や領民へ倹約が触れられ、能登の奥・口郡では郡奉行から百姓へ木綿布着用の励行が告げられる。六月一日綱紀に就封の暇が与えられるが、吉治の縁組が控えているため江戸を離れられなかった。七月十七日十村等を通して村肝煎や組合頭から百姓に倹約を守るよう伝えさせるよう達し請書を取った。二十六日能登の日蓮宗瀧谷妙成寺日體と金沢の日蓮宗寺とで色衣使用の件で争いになり、憤った金沢の僧達が京の本寺群へ訴えようとするのを、本多安房守が大聖寺へ早飛脚を出して四か所で取り押さえ各寺へ戻した。
⑥綱吉薨去
八月吉治が体調不良を訴え、十一日に瘧と診察される。堀部養碩が治療に当たり、十四日に林伯立が薬を調合して夜に熱が引いた。十五日馬の毛を剃った跡を揃えるため蝋燭の火で焼き手で擦って整えていた(毛ぶり)のを幕府が火事の元であると禁じた。九月七日吉治が麻疹を患うが回復に向かい、十三日酒湯を浴び、十五日綱吉から御奏者番松平兵庫頭乗紀が慰問に遣わされた。だが今度は六十六歳の綱紀が二十七日に上屋敷で調子を崩し、十月二日に麻疹と定まった。薬師寺宗仙院が薬を調合し回復した。四日に綱吉は戸田肥前守忠位を派して病状を尋ねる。
十一月一日老中等からあった本郷邸御守殿での心得を局御鎖口の際廊下に貼り出した。姫様御為第一、吉治のことも疎かにせずご奉公油断無く、表方と申分せず表方へ難しいことは言わない、奥方より吉治へ人のわびこと惣て粗相の儀を申すまじき事、進物を献上させない、女房は一年に二度も外出させないし先も確かでない所へ遣わさない、特に男女不行儀が無い様に、台所へみだりに用事を言い付けない、火に用心し所々に不寝番を念入れる、囲炉裏は許可したもの以外一切禁止、等の記載事項であった。十五日吉治が本郷邸へ移る。十八日松姫が昼八ツ半時快天の中来嫁する。三十日綱吉から成婚を祝し銀三百枚と御時服三十、綱紀へ銀二百枚と綿三百把が下賜された。姫は大奥、吉治は黒書院に登り綱吉へ備前長則の太刀・銀千枚・時服百・絹二百疋、綱紀は一文字の太刀・金百枚・時服五十・綿五百把・備前長光の刀、利章は太刀・馬代金・時服十を献上し、綱吉からは吉治に国光の御太刀・伏見正宗の御脇差と御盃、綱紀に来国光の御脇差、利章に粟田口国吉の御脇差が、家宣からも吉治に時服三十、綱紀に綿三百把が下賜された。家臣にも時服の賜物がある。松姫には綱紀から銀二百枚・綿二百把・三種二荷、家宣から綿二百把・三種三荷が下される。
十二月十八日利章と家中から一人に叙爵の命があり、脱肛(直腸の下部分の粘膜が肛門の外に出てしまう疾患)で動けない綱紀に替わって吉治が登城して御礼を言上した。利章は従五位下備後守、村井親長を豊後守として金沢へ使者を発す。二十六日生類憐みの令を改めて領内に伝達する。
同六年正月一日綱紀は登営の帰りに御守殿を訪れ、松姫に黄金一枚と御箱肴を進呈する。吉治も姫に白銀十枚と御箱肴を進じた。六日幕府は馬の頸を毛ぶることは馬の痛みにならないとして先の令を解除した。七日利章が登営して叙爵を謝すが、この時綱吉は麻疹に罹り、家宣が御名代として政務に臨んでいる。綱吉は九日に酒湯を浴び回復したかに見えたため、諸大名の登城が命ぜられた。だが一転体調を悪化させ翌十日に薨去した。六十四歳であった。この時綱紀は体調すぐれず吉治が代理で登城しこれを知る。申ノ刻に下城して御乗用所から庄田五左衛門を早乗御使で綱紀に伝達させ、急ぎ上屋敷に入って綱紀と話し込み、その後に松姫と老中に会ってから中屋敷へ戻った。金沢へは十六日に報せが着き、普請・殺生等遠慮五十日が触れられた。十一日綱紀は吉治・利章と江戸城西ノ丸に登り家宣に謁し、老中秋元但馬守等と話す。
十九、前田利昌による大事件
松姫御入輿のため昨年冬から江戸に来ていた本多政敏と前田孝行が二十六日東海道から金沢へ戻ることになり、朝に本多、半日遅れて前田が発った。同月深雪になり金沢では紅雪が降った。二月一日に綱紀、翌日に吉治が上野へ参詣したが、利章は疱瘡に罹っていた。幸い七日に酒湯を浴びる。同日綱吉の後を追うかのように正室の鷹司信子が五十九歳で卒した。十六日前田家として一大事が出来する。
綱吉の法事が上野寛永寺で家宣により行われ、早朝より公家衆も参詣していた。中宮使を饗応する役に大聖寺分家前田采女利昌(二十六歳)、大准后使へは大和柳本の織田監物秀親(四十八歳)が担当し、その他の役方も夜のうちより尾張家宿坊恵恩院に詰めていた。未明に采女が監物に近付き居眠りしていたところを起こして短刀で喉を突いて殺害に及び、その短刀を拭って鞘に納めた。この始終を見たのが中山三位だけであり、次の間に人の音がしたので障子越しに覗いたら惨状であったと後に薬師寺宗仙に話している。采女家老木村九左衛門の証言では、采女と監物が諸事応談しているうちに采女が、あなたは年長者であるから何事も尋ねて勤めていたのに度々だしぬいた、と言っていたことから遺恨に思っての事、かねて覚悟を決め生母の慈眼院へ武士は事により堪忍ならぬことがあるので不慮のこともあるだろうから驚かれないように、と前日に話したため慈眼院から災難無きようにとお守りを渡されていたとのこと。木村九左衛門はこのことを知りもしやと思い恵恩院に控えていた。近習岡田八郎右衛門も供で宿坊にいた。事件後に大久保加賀守が来たので密かに采女が屋敷へ退こうとした。大久保は監物家来の取締りを厳重にするよう勅使饗応役の越後新発田溝口伯耆守重元(前田利直妹婿)に命じ、宿坊の門に目付を配置した。岡田は采女を背負い上に小袖を掛け、木村が付いて采女が急病であると偽り大久保加賀守へも断ってあると言ったため番所は頓死と思い通過できた。その後に門を固く閉じたため監物の家来は追掛けられず、木村は途中に采女を乗物に押し込み急ぎ利直や利興に助力を要請し、双方の警備のもとで茅町の屋敷へたどり着いた。利直と利興が采女の屋敷へ入り、綱紀と吉治へも連絡が行く。吉治はこれを知り上屋敷から馬で駆け付け、御供の家来衆はこの後を追いかけた。しばらくして綱紀も入り状況の把握に努めた。木村からは聴取できたが采女は答えられるような状態に無い。綱紀は堀平馬を監物の弟で養子の左京(織田成純)のもとに遣わし口上を伝えさせる。内容は采女の様子を見ると乱心に違いなく、時節や場所を思うといたって迷惑、このことは御家中にも通達するよう頼み入る、という趣旨であった。返答には織田能登守が当たっている。
同日暁に大目付松平石見守乗宗・目付伊勢平八郎と久留十左衛門が采女の屋敷に来て、采女を山城淀の石川主殿頭義孝に預けるとの命を伝える。石川家留守居役二人等が采女を受取り、十八日切腹が命ぜられる。その場では検使三人が立ち会い、采女が脇差を取るや否や腹に突き立てる前に御徒目付が首を打った。監物の跡は左京が継いだが、采女は利直本高内のため大聖寺領分のままで落着する(前田家雑録)。
「政隣記」では宿坊上野車坂屏風坂の間で采女と監物か止宿の所で事件が起きたとあり、家老の木村九左衛門と近習岡田弥市郎が采女病気と偽り弥市郎の肩にかけ退き乗物で清水門を出て、そのまま茅町の屋敷へ帰った。卯ノ刻に加賀藩巣鴨屋敷へ利直から連絡があり事件を知った綱紀は、辰ノ刻に本郷屋敷に入り利直と合流して采女の屋敷へ行き仔細を訪ねるが采女はただ迷惑とばかり言うのみ。しばらくしても織田家から何の音里も無く、御目付や御使番が来たので綱紀は上屋敷へ戻り慈眼院を見舞って中屋敷へ帰る。吉治は利直から話を聞き綱紀と入れ替わりに采女の屋敷へ早馬で駆け付けた。綱紀は織田家へ御大小将頭堀平馬を遣わし監物が乱心し時節柄迷惑、御一類中へも宜しく御心得と申し入れ、織田能登守が承知し左京はこの時節で遠慮しているため追手申し聞かせるとの由。法事は大久保加賀守の差配でそのまま進行し、饗応役も役に当たっている者で手配りさせ、騒動させずに収めた。家宣は御参詣時刻を延ばして午ノ刻に詣でた。
「利昌公織田監物御殺害之始終記」によると、正月二十二日綱吉の御遺体は上野に入棺され、二十八日に御廟に御遷座し、二十九日から御法事が始まる。勅使今出川前内大臣、仙洞使醍醐大納言、春宮使小川坊中納言、女院使姉小路宰相・中山宰相・町尻三位、宣命使平松宰相、副使少内記、幕府からは溝口伯耆守・大村筑後守・佐竹壱岐守・前田采女・織田監物が饗応に当たる。二月十四日御勅使が伝奏屋敷に参着、十六日八ツ半時恵恩院に御装束束帯、七ツ時宣命御規式となっていた。采女も朝に出かける際、小川弥右衛門が短刀を差上げると備前則光を所望する。その後刃傷に及ぶが近習の岡田弥市郎が駆け寄ったため監物の家来と間違い肩先口に斬りつけた。そこに木村九左衛門が来たので自刃しようとするが木村から本望を遂げたのであれば病気と言ってこの場を離れた方が良いと説得され、乗物で黒門から池之端中町通りで戻った。無縁坂から給人高橋彦丞を加賀藩と大聖寺藩に注進させ、利直が慌てて采女の屋敷に駆け入った。上野では寺社奉行本多弾正少弼(采女の伯父)が大目付松平石見守へ報告する。采女の供をした岡田弥市郎は二十二歳、裃の上に羽織を着ていたが肩の傷四・五寸、両袖に血が夥しく溜まり外科関口道隆が治療しようとするのを断り、このままにしてほしいと言うのを利直の命で療治させる。夜明けに本多弾正少弼が采女の屋敷に訪れた。采女の屋敷には綱紀と吉治が鑓を所持した士分二十人ずつを従え入った他に、従兄弟本多信濃守・石川近江守・本多淡路守・本多兵庫や前田利興、妹婿水野中務少輔、前田帯刀孝始(旗本・七日市利理十一歳の実父)等も訪れた。綱紀は監物の子息左兵衛へ村田縫殿右衛門を御悔の使者として派し、上野では当事者が抜けた穴を増山対馬守と本多若狭守が埋めて饗応に当たり、九ツ時に揃って家宣が御成り、未ノ刻に帰った。
刃傷の原因について「利昌公織田監物御殺害之始終記」によれば次の様である。御役で伝奏屋敷に詰めていた際に打ち合わせ中、監物が采女に強く言い過ぎ立腹したとの風聞がある。また御馳走人(饗応役)拝命の時に采女が初めて監物と対面した際監物が采女に、そこもとはまだ二歳じゃ、然るにいつでも采女は上座に御座あり監物は織田家なのに家柄は時代がたつと言われなくなるものだ、等と言ったとか。
午の刻に大目付の吟味で、采女家来は父の利明が付けた者であり江戸で採用されたのではないから退去するようにとの指示で去ることになった。采女屋敷は追って指図あるとのこと。監物には息子がいるので采女の屋敷の警備には万端心掛けることを利明が命じたのは、浅野遺臣による吉良邸討ち入りを想起したためであろう。未ノ刻に石川主殿頭家中連名の奉書を西ノ丸より御小人目付山田九右衛門と風間喜助が持参し、石川主殿頭への御預けが命ぜられる。采女は下浅黄無地の衣服の上に花色梅鉢紋・花色裃・かた織の帯を着して待つ。主殿頭邸から騎馬四・五騎と足軽二十人・給人十四・五人、乗物一挺・徒侍十二・三人出すことになり、暮に屋敷へ受取りにやってきた。利直と利興・帯刀が出て采女を見送るが、その様子は目も当てられぬくらい憔悴しきっていた。
采女生母の慈眼院は本多能登守忠義十一番目の息女で利明の内室として嫁ぎ、千駄木の大聖寺藩下屋敷に暮らしていた。常々琴や三味線を嫌い弓馬を好むという性格で、香が趣味であった。事件後に監物を殺害した後でなぜ即座に切腹しなかったか、心得の無いことだと嘆いたという。十八日采女利昌に切腹の命が下る。この時に流行の狂歌二首あり。
おたどのはけんもちながら手もさゝで 采女の君の盃にあふ
あいたおた首をまへ田におとされて けんもつかひはなかりけるかな
采女には側室が一人いて広徳寺で剃髪したとのこと。茅町の采女屋敷は一旦利直が預かり、その後小川町の内藤図書が拝領した。
十四日綱紀に西ノ丸へ登城の指示がある。そこには十六日万石以上登城とあり、ここに綱紀が入れられていたため立腹し、即刻福嶋善太夫を秋山但馬守のもとに遣わして抗議すると、采女切腹の日に当たる十八日に御三家と同じ登城と決まった。なお吉治と利章は十六日に諸大名と同様登城している。
二十、徳川家宣に将軍宣下
二十三日幕府から赦を実施する達しがあり、放免すべき罪囚の調査が命ぜられる。加賀藩では三月四日に領内へ令した。二月三十日に綱吉の遺物を綱紀が拝領することになり御脇差来国俊代金百五十枚、吉治も御脇差行光代金七十五枚を下される。
三月十六日酒造の運上を免除する幕令を領内に伝えた。二十七日綱吉正室の遺物を賜い、後花園院御宸筆新古今和歌集を綱紀に、足利義政書筆の千載和歌集を吉治に、源氏蒔絵の御書棚と御巻紙五を松姫に下される。
四月二日徳川家宣への代替わりを祝し綱紀と利章が登城し、太刀元重代金十枚を家宣へ、太刀宗忠代金十枚を側室お須免が産んだ大五郎宝永五年十二月二十二日~同七年八月十二日)に献上する。翌日吉治も登城して、家宣へ太刀長守代金七枚五両、大五郎へ太刀正次代金七枚五両を献じる。綱紀からは将軍代替の誓詞を井上河内守宅へ吉治と連名で提出した。十二日采女利昌の一万石分が利直に還付される。二十八日綱紀と吉治が天徳院で将軍宣下の使者として下向していた右大臣二條綱平と会見する。二十九日松姫が綱紀・吉治・利章を招いて饗応した。五月一日家宣が正二位に昇叙し内大臣に転じて右近衛大将を兼任、征夷大将軍と源氏長者の宣下あり。この時に列するはずの綱紀は腰痛で出られず、吉治と利章が御装束で辰ノ刻に登城した。七日綱紀は二條綱平を本郷邸に招き、十一日登営して家宣を祝した。領内へは猪・鹿・狼を玉込鉄炮で撃ってよいとの幕令を改めて伝達する。十八日家宣から綱吉へ御時服二十・御樽一荷・御箱肴一種、吉治へ御時服十と御樽一荷を賜った。六月二日綱紀が松姫を本郷邸に招き、能と狂言で饗応する。四日酒屋の運上金について幕令に従い免除するとしつつ、領内での役銀はこれまで通り徴収すると告げた。
主上(東山天皇)が二十一日に御譲位し給い、五の宮慶仁親王(中御門天皇)が御位に即れ給う。七月三日家宣に男子が誕生する(鍋松、後の家継)。産んだのは側室左京の局で父の浅草唯念寺勝田玄哲は元加賀家中であった。四日綱紀は本郷邸に老中や若年寄等を招いて、将軍宣下が終わったことを能で祝した。これには用聞の町人や本郷湯島の町人・御門出入札を持つ者も招待して、御白洲から四百三十七人(御目見町人は除く)が見物させ、前方に赤飯、白洲で生菓子や茶を振舞い、酒も焼物徳利で三人に一つずつ廻して下した。十一日綱紀と利章に就封の暇が与えられ、綱紀には御腰物来国光代金百枚と熨斗を家宣が直接渡し、利章も御時服二十を賜った。また御台所からも使者があり御時服十と二種一荷を下された。二十七日松姫と窕姫が御主殿で綱紀と利章に会い、松姫の所望で綱紀が龍田、利章が小督を舞う。
二十八日非人小屋の収容人数が調査される。七月十六日時点で二千百十人、十六日から二十五日までに収容された人数は六人、合計二千二百十六人のうち十六日から二十五日までに出所が十二人(四人は生活に支障ないと判断)、十人は死去したため、実質二千百九十四人が二十五日時点での収容人数であった。八月十六日行路病者の取扱いについて、富山藩領から送り出された者には富山町奉行へ郡奉行に依頼し富山から足軽を付けてもらうようにする等が達せられる。
二十一日綱紀と利章が帰国の途に就いた。二十六日吉治は池田吉泰の屋敷を訪れ、将軍宣下の祝賀能を観る。九月四日に綱紀達は金沢に着き、松姫は山下権兵衛を金沢に発して六日に着く。金沢城では将軍宣下と御入輿・豊姫御婚礼・上屋敷への御移徒を祝い、十九日・二十一日・二十五日・二十六日・二十八日に能を七番ずつ披露した。十一月三日家宣が本丸に移ったことを祝し吉治が御台子三座・御肴三種・御樽二荷、御台所へ同二座と二種一荷、大五郎生母へ同一座と二種一荷を献じる。十八日松姫が鉄漿初の儀を執行し、家宣は秋元但馬守を遣わし白銀千枚と御樽肴を下す。綱紀と吉治も三種二荷ずつ拝領し、吉治は御馬廻高田十兵衛を派して御祝儀を献じた。
主上が疱瘡との知らせがあり、綱紀は十月十二日に足軽頭近藤三郎左衛門を京に派して奉伺させる(十一月十日金沢着)。幸い回復は順調とのことで、御酒湯御祝儀を十一月二日に岡田喜六郎に託して出立させた(十九日帰着)。江戸へは十九日に奥村伴七を派し、利章も七日に岡嶋助七を遣わして御酒湯を祝す。その際に伴七が栂源左衛門・青木勘太夫と御用所より帰る道を間違え吉治の御座の間に入ってしまい、青木新兵衛が見咎めて押し出した。使者の両名は十二月十一日に金沢へ帰着し、二十九日に伴等は遠慮や指除を言い渡された。十一月二十七日に京へ前田数馬を派して、新内裏に主上が移り給うたことを賀し奉る(十二月十八日金沢帰着)。
十二月六日から十日まで金沢神護寺で綱吉の法会を執行した。綱紀は六日・八日・十日に参詣する。吉治も江戸上野での綱吉の法会(十一月二十九日から十二月十日まで)に参詣するため十一月二十九日に上野に予参し十二月十日法会に詣でた。
東山上皇が御疱瘡のため十七日に崩御され給い、三十日京へ大組足軽頭原田又右衛門を、江戸へ加藤金十郎を派遣し、利章も土方與八郎を出立させ弔し奉る。綱紀は正月二日夜に予定していた御謡初を取り止める。
二十一、大聖寺藩家中騒動
同七年正月一日金沢城で綱紀が年頭の賀を受け、利章は布直垂姿で名を言上した。江戸では松姫が登営し、家宣から内々に御供の本多図書へ御時服三、津田兵庫へは同二が、御台所からも図書へ御檜重が下される。
この頃大聖寺藩内で対立が勃発していた。家老村井主殿は昨年秋に京都へ資金調達に行き、嶋原に三十五日間入り浸って調達した資金から支払った。秋から暮までの普請では見積りより多くかかり奉行に責任を取らせて禁牢を命じて原因を調査すると村井の指図であったと分かった。この奉行は足軽出身で村井が百五十石まで引き上げた者であった。連座した者では京に横目として派遣され銀子を使い込んだ石黒市左衛門、先年利明の姫が結婚した際に道具を盗んだ西尾喜左衛門、石黒の相役で使い込みはしていない広瀬源左衛門等がいる。村井は江戸勤務の際も吉原へ通い詰め、江戸屋敷内でも乱れた風儀となっていた。以上は前田家雑録にある記載だが、原因は神谷守政父子と村井の対立であり、利直が老臣の神谷を敬遠し村井を抜擢したことから起こっている。その後も両派の対立は継続し藩内は不統一であった。二月十四日利直は自ら抜擢した村井の罪状を家中に告げ、恩を忘れ奢を極め役儀の権威を以て家中の面々に無礼いたし悪心法外の仕方第一段々格式等伺いもなく我儘にいたし…と散々に罵倒し、村井や妻子、連座の者へ預けや遠慮を命じる。十五日に利直は金沢の綱紀に事情を報告し、二十六日村井に切腹、その他多くの者に刎首や追放を沙汰した。主殿の七歳の子角太夫も切腹する。三月十四日金沢に利直が来て翌日登城した。
二十二、朝鮮通信使来日
四月四日吉治が登営し家宣が邯鄲・黒塚等、老中格間部越前守詮房が橋弁慶を演じるのを観て、直接手づから八丈嶋二十反を御目録で拝領する。翌日も登城し京から来ていた蹴鞠の飛鳥井・難波両家と会見し、その蹴鞠の技術を観た(別史料では能が十四日、蹴鞠が十五日とも)。御礼として綱紀が浅井左兵衛成正を江戸に遣わした。七日家宣の将軍宣下で下向していた大納言二條吉忠(二条綱平の子)が巳ノ刻に訪れ、吉治は御白洲中程より御門前左方で御出迎えする。
六月十八日綱紀が来月に控えた参勤を閏月があることや暑い時期でもあることを理由に延期を請い許された。十九日綱紀は老臣等に子供達が江戸や嫁に行っていないし、参勤も延期になり「別而徒然之躰」と漏らし、前田美作守孝行の娘一人を話し相手として小姓同然で養いたいと告げ幕府に申請する。この頃に幕府から北陸道巡察使が派遣され、十八日に着く予定が雨で遅れ、境から新川郡三日市・滑川・岩峅寺、富山、砺波郡井波・福野・今石動・佐賀野、射水郡氷見を巡り二十一日に金沢へ入る。構成は嶋田藤十郎(二千四百石)上下三十五人・高井作右衛門(千五百石)上下三十四人・筧助兵衛(千百石)上下三十四人であり、加賀藩では金沢の戸数調査を提出させ、二十七日大聖寺へ進んだ。
八月一日綱紀が松姫のため新たに小者を雇用する。この時吉治の元には小者がおらず御守殿の手が不足していた。そこで二百二十人を召抱えることに決め、百五十人程を詰めさせる(七十人程は交替で国元に帰休)。吉治の小将から二人を割場奉行に任じたらよいと考えていたが吉治に任せた。御守殿附足軽や小者は別に召抱え、足軽の採用は後に廻し、とりあえず小者は小人役十五人を入れて百五十人雇い五十人ずつ交替で百人を詰めさせることを決めた。七日前田孝行の娘(誠姫)を養女にすることが幕府の許可を得た。二十二日博労について綱紀は江戸では帯刀しているのに領内ではそうでないことの理由を調べさせた報告を受ける。それによれば以前帯刀していたが町人が刀を帯びることを問題視し、天和年間に町奉行支配御細工人の帯刀を禁じた際に博労も刀を禁じた、ただし牢人身分の者が博労をする場合は認めている、とのことであった。越中の博労は利長が四郡とも佐賀関助(父関太夫は利家に二百石)に委ね、その長男関助は百石で砺波・射水・婦負、次男隼之助は寛文頃百石で新川郡を管轄していた。
二十五日綱紀が参勤の途に就き閏八月七日に江戸へ着く。利章も後から出立した。十一日綱紀は利章を伴い登営して参勤の御礼をする。九月二十四日少納言高辻総長が上屋敷を訪れた。二十五日綱紀は進物を持参する使者に不正や誤解の起こらないように気を付けること等を告げる。十月十五日金沢で綱紀が頭・奉行の職務に関し「覚悟相改候得者一段之儀」と諭したことが告げられる。二十八日大聖寺の利直が病のため利章を養子にする申請を幕府に行ったことが金沢に伝えられる。十一月十三日江戸城に登営した綱紀は尾張徳川吉通や水戸徳川綱條、松平(保科)肥後守正容・伊勢桑名松平下総守忠雅と同席し家宣が野々宮・船弁慶を舞うのを観る。家宣の手づから純子(どんす)を目録で拝領した。
主上が十歳で御即位の大典が十一日に挙行され、綱紀は十六日に京へ御祝儀の使を派し、十九日吉治と共に登城して賀し奉った。十二月十三日利直が江戸で卒し(三十九歳)、十九日棺が江戸を発した。
主上が御元服との報せで、同八(一七一一)年正月二十二日綱紀は京へ今枝民部を使者として派し賀し奉る。二十九日利章に大聖寺襲封の命が下り、家宣に太刀・金二十枚・時服十を、御台所へ白銀二十枚を献じた。三月五日綱紀は近年祈祷に事寄せ改宗や寺替する者がいると指摘し、みだりに改宗したり旦那寺を変えないよう命じる。十三日家宣五十歳を寿ぎ、肴二種・樽一荷を献じて賀した。家宣は御三家と綱紀からのみ献上物を受納する。十五日幕府医者の薬師寺宗仙院を利章や徳山五兵衛・本多弥兵衛・利倉善佐を伴い訪ねた。薬師寺は町医者出身で、若い時喧嘩で左の腕を失ったが右手だけで両手のように薬を調合し、手水は左の肘に杓を挟み使ったという(富永数馬覚書)。柳沢吉保の大病を療治し加増され綱吉の信頼を得ていた。二十一日登営し御三家や美濃高須松平摂津守義行と共に家宣の能を観覧し、御硯箱と御料紙箱を手づから拝領した。二十五日浅野吉長に嫁いだ節姫(安芸御前・桜田御前)と池田吉泰に嫁いだ敬姫(因幡御前)が松姫を訪ね、窕姫(浅野吉長と節姫の女)が同席する。敬姫には子が出来ず鬱気味で綱紀は吉長とも相談し中屋敷で静養させたこともある。後年吉長の側室が男子を産むと敬姫の養子扱いにするが、綱紀はこれには反対している。
家宣の将軍職就任を祝う朝鮮通信使の来日を控え、幕府は人材を求めていた。二十五日加賀藩の儒者室信助直清(木下順庵門下)も新井白石の推挙で家宣に召され、二十三日江戸へ着き二十五日に幕臣として儒員に加えられた(二百石・室鳩巣)。四月一日綱紀と吉治は江戸青林寺の旅館で、伏見宮邦永親王に謁す。十三日利章が就封の暇を受け、時服二十と白銀・御馬を拝領する。同月に幕府から七・八月頃の予定で通信使が来る際に、加賀藩から鞍馬四十一疋の提供が求められる。一疋分に足軽一人、口取二人、合羽・沓籠持一人や長柄傘・袷合羽籠持・提灯持を付けて、来日時には美濃大垣から遠江浜松まで、帰国時には浜松から大垣まで出すようにとのことであった。
主上御即位を祝し二十五日に正徳への改元が布告される。京からの提示に新井白石が元号名を選択したとのこと。五月一日綱紀に伝えられ、十一日領内へ触れた。十八日綱紀と吉治は江戸に下向していた太閤(徳川秀忠以来欠員の太政大臣を経験)近衞基熈(家宣正室の父)と会見する。六月十八日領内の郷村帳を幕府に提出した。越中国四十七万九千八百七十九石六斗九升・郡数三郡・村数千百二十ヶ村、この内御判物高四十六万九千七百五十四石七斗七升三合・一万百二十四石九斗七合籠高、外新川郡・射水郡・砺波郡で新田高十二万七千七百四十七石三斗が貞享元年御改の節、高二万七千五百四十四石八斗一升がそれ以後の分となっている。同月に通信使来日のため命じられていた馬を出発させた。
七月四日綱紀が利章と家老三人を駒込邸に招いて小謡や御囃子や三條吉家御刀代金七百貫を進め、御料理・盃事で饗応した。十九日京の四辻家から資金援助の要請がある。かつて前田利政の娘が利常の養女として四辻公理に嫁ぎ季賢を産んだ縁もあり、老中とも相談してこれを了承することにした。二十五日就封の暇を受け、傍へ置くことにしていた前田大炊妹の誠姫を養女として三條西公福に嫁す意を告げる。公福の父実教と綱紀は親交があり、同家の文庫は綱紀が再興している。早くに父を亡くした公福の教育にも綱紀が世話をした。二十六日御礼のため登営し、九月二日利章が江戸を発って十五日に大聖寺に入り、七日綱紀が発ち十九日金沢へ着いた。二十六日金沢へ利章が来る。
江戸では十月十八日に朝鮮通信使が江戸に入る。この時幕府では接待に掛かる費用が百万両以上と莫大であることを考慮し簡素な饗応に努めて六十万両に抑え、大君呼称を朝鮮国王と対等な日本国王に改めている。加賀藩から接待に赴いた村田縫殿右衛門等は江戸の藩邸に帰り、二十九日通信使が江戸城に登った際には吉治も登城した。通信使一行は十一月三日(一日予定を雨天順延)、十一日、十九日にも登城し、吉治は十一日に登営、十九日にも登営して通信使帰国を観た際は窕姫が見物のため昨夕より池田家桜田御前のもとを訪れ、この日吉治と生母町も桜田御前のもとに寄った。綱紀は二十七日に使者として御馬廻組杉山帯刀を江戸に遣わし、通信使帰国を祝す(正月三日帰着)。十二月二日通信使を見送った諸士が金沢へ戻り、村田縫殿右衛門等二人は何やら不調法があったとして登城に及ばず、他の二人から綱紀は直接様子を聴取した。
誠姫の婚儀について十月二十六日吉治が登営した際に許可をもらう。十一月六日金沢城で綱紀が松姫から贈られた茶を披露し、能を催して利章が頼政、長又三郎が小鍛冶、前田大炊が龍田を演じる。十二月二日松姫は御着袴の儀を行った。六日利章が大聖寺へ帰るが、二十五日松姫が疱瘡に罹患し金沢への使者が晦日に着いた。二十七日綱紀に登城が命じられるが金沢にいるため本来は吉治が登営すべきところ、松姫が疱瘡のため出来ず、代理に前田利興が登城する。その場で老臣一人の叙爵が告げられ、吉治は直ちに奥村有輝を呼び伊予守就任を指示した。
同二(一七一二)年正月六日松姫が御酒湯を浴び、家宣は秋元但馬守を遣わし白銀三百枚・綿三百把・御肴三種を下す。綱紀と吉治宛にも三種ずつ、奥村伊予守へ御時服が下され、御台所からは本間豊前守が派されて綱紀と吉治宛に一種一荷ずつ拝領、松姫(綱吉と側室大典侍=大納言清閑寺煕房女との養女で大典侍の姪)等からも御祝儀を頂いた。九日綱紀は黄鳥等の異種の鳥を捕らえたら提出するよう命じ、十七日にも触れる。二十六日利章が年頭祝儀のため金沢に来た(三月七日帰)。二月二十一日松姫は疱瘡が癒えた祝賀能を催し、御使役以上が見物する。二月から三月にかけ大聖寺の家老神谷内膳が数十度金沢城を訪れ、加賀藩の家老衆と会談する。十五日に金沢城権現堂御土蔵に賊が入った形跡を見つける。四月十五日因幡御前から金沢に派遣された附物頭津田弥市右衛門が乗馬中に蓮池堀(百間堀)へ通りかかると馬が暴走して堀の中に飛び込み、落馬した津田は石垣を伝って登り助かった。
霊元上皇中宮で准三后新上西門院(鷹司房子)が、四月十四日に崩御され給い、十八日に報せを聞いた綱紀は二十二日までの鳴物普請停止を命じ、五月七日江戸に御馬廻組津田半進を、京に御大小将番頭水原清左衛門重定を二條家と、栄子内親王のもとへ使に出した。
吉治が四月十九日綱紀に替わって登城し家宣から領国安堵の判物を受け、二十二日御大小将永原弥平太に持たせて金沢へ送る(五月一日着)。二十四日権現堂御土蔵に侵入した賊を加藤五太夫が捕らえ禁牢に処す。富山の者であった。六月二日三條西公福十五歳からの結納の使者河村右兵衛が金沢の旅宿(才川橋爪町人米屋源右衛門)に着いた。十六歳の誠姫は紅白綸子十端・昆布一折(十二把)・雁一雙一箱・大塩鯛一折(十二)・御樽一荷を受ける。その中の御懐紙内には御先祖三條西実隆(逍遥院)の詠んだ歌から忍伝書恋と題する「あだならぬ便りと思へど言の葉の ちりもやせんと残してぞやる」が記されていた。綱紀へは御太刀代銀三十両・御肴一箱・昆布一組・御樽一荷、吉治へ同二十両と御肴一箱・昆布一箱が贈られる。十一日婚儀に従事した家中を慰労するため金沢城で弓八幡・道成寺等五番と狂言五番を催した。
結納(元禄十一年九月)から日延べされていた二十歳になる直姫と二十四歳二條吉忠との婚姻がようやく実現することになる。条件は綱紀が随位に上洛できることであったとも。直姫の警備を二十四日厳重にするよう命じ、七月六日直姫を御料理や能で饗応する。十三日直姫は金沢を発った。十五日綱紀は参勤の途に就き、二十六日蕨て吉治の出迎えを受け江戸に入る。直姫は二十二日京に着いて二十六日に入輿し栄君(まさぎみ)(利子)と改める(後に吉忠が関白となり栄君は政所として従三位叙位)。
綱紀は二十八日家中の奢侈を戒め、晦日伎芸の者を宿泊させ芸を観る行為を禁じ、登営して参勤の礼を行った。同月綱紀が江戸にいるときの金沢での消防を定めた。八月十日領内に大風の害があり、九月二十八日収納米の検査を緩やかにさせる。
二十三、各地で一揆
十月六日大聖寺で郡奉行前川宇左衛門・寺岡新右衛門・大目付堀三郎左衛門等と十村六人が那谷村辺りで宿し、大風後の作毛見立について話し合っていたところ、夜八ツ時頃に百姓が押し寄せ周囲を取り巻いた。収納のうち四歩免じるとのことだが六歩にしてほしいというのが要求である。とりあえず引き取らせ江戸の利章に知らせるが、八日夜から四千余人が押し掛け打毀しに及ぶ。一揆勢は勅使村願成寺に集結し、茶や紙の運上に携わる茶問屋と紙問屋を廃すこと、一揆に参加した者から入牢者を出さないことを要求し、一揆に参加しない村は焼き払う等を決めた。九日金沢へ状況が報告される。大聖寺藩は妥協点を探り、年貢米は可能な分だけでよいし不足分は御貸米の扱いにすると言明して収拾させる。御貸米一万二千余石・免切用捨米二千余石(『石川県史第二編』)が実行され、逮捕者を出さずに翌年余罪で捕縛するに止めた。
旱魃と風損で二十日石川郡と射水郡でも減免を百姓が要求して十村と争い、合計三十人程が禁牢に処された。射水郡では金沢に訴え出た七人が処され、このうち二人が斬罪、他は追放・追出が命ぜられたとのこと(政隣記)だが詳細は不明。あるいは砺波郡の騒動と誤ったか。
砺波郡でも御貸米が実施される中、大西組では御褒美が出されたほどであったが、御褒美が少ないと組から大勢が十村善六(村を慶長頃に開拓した伊東左衛門の末)方へ押しかけた、翌年正月からの吟味で四十人を手鎖にし、このうち二十六人を二月二日に禁牢・他は赦免し首謀者は善六宅前で磔に処した、と上田旧記にある。実のところ事態はさらに深刻であった。十月二十日大西組の農民七・八十人が作柄検査(立毛見立)を求めて金沢の御算用場へ押しかける。三十人ほどは帰ったが、五十人余は残って改作奉行と話し合い、例年通りと申し渡されたものの、土生(はぶ)新村清兵衛・次右衛門・豊蔵等七人が納得せず手鎖で牢入りとなった。翌日夜半農民達は十村大西村伊東善六宅へ押し込み、善六は隣家へ逃れたため、手代の林七が応じ要求を拒否、言い訳しながら裏口から逃げたため打毀しに発展する。大槌・掛矢で柱を傷つけ、釜二つを壊し、板戸を破り、家財道具を荒らし、夜明けには引き揚げた。砺波・射水郡奉行塩川安左衛門が鎮定のため足軽を率い山田野を経て到着した時には既に解散した後であり、十七か村の農民が金沢の公事場で吟味を受けることになった。才川村新兵衛の証言で二十八人が禁牢の判決が下るが、福光近村四十七か村に廻状した肝煎の大西村清兵衛は首をつり、田中村八郎兵衛は大井川に身を投げた。竹内村彦兵衛と土生村市左衛門は牢入りが命ぜられ、他は村預けで放免された。翌年正月二十三人が禁牢、十月追放の処分が下され、高と農具は村に下し渡される。十一月六日(御郡典では十月六日)には市左衛門と彦兵衛は善六宅前(御郡典では土生新村領内)で刎首(斬罪や磔とも)された。また大西組には御貸米が多く下されたが、小坂・竹内四ヶ・開発・祖谷・広谷・才川七・土生新・土生・高宮・天神・小二又・小院瀬見・舘・田屋・重安・嫁兼・吉見の十七か村には逆に三十年間の一歩過怠免が課された。抗議のため二百人が十村の田中村三右衛門方へ押しかけるが、戸を閉めて中へ入れず、説得して村へ戻らせた。なお過怠免は元文四(一七三九)年に許されている。善六を継いだ養子加兵衛は、延享四(一七四七)年十一月新川郡黒部川流域の開拓を命ぜられ、子息嘉伝次に大西組を任せて沼保村へ引越した。
二十四、徳川家継の将軍就任
(同二年)十月十四日御三家や在府諸侯に登城が命ぜられ、綱紀と吉治が六ツ半時に登営すると、大老井伊掃部頭直該(直之・直治・直興と同一)から徳川家宣の薨去が告げられた。五十一歳の家宣は感冒(インフルエンザか)に罹患していた。後継は四歳の鍋松に決まる。家継生母喜世(貞享二年~宝暦二年九月十九日・左京の局)は本名勝田輝、父は浅草唯念寺住職玄哲、母は和田治左衛門女で、玄哲の勝田氏は鎌倉期駿河国勝田荘に居し南北朝期に吉見氏と能登に赴任した一族である。輝は京極氏や戸沢氏の屋敷に出仕した後、矢島治太夫(徳川家綱乳母矢島局の養子)の養女として宝永元年甲府の徳川綱豊(家宣)の桜田御殿に出仕した際に側室になる。家宣薨去後に月光院と称し、鍋松が家継として将軍職に就いてから従三位に叙せられ、和歌集『車玉集』を編纂した。実家の勝田家は兄が町医者であったのを三千石旗本になる。
十一月二十二日大聖寺藩江戸千駄木屋敷から申ノ刻前出火し、綱紀と吉治が火消組を率いて鎮火させた。二十七日綱紀と吉治が鍋松に誓書を連署して提出し、二十九日に家宣の遺物として御小脇差来国光代千五百貫を拝領する。十二月一日秋の風損の結果家中が収納米を得られず困窮し、加賀国分を御蔵米から給与した。十日江戸で表小将松原平助が同僚の大屋政太夫を謀で討たんとしたことが分かり捕縛し、松原は五箇山へ流刑、大屋は閉門に処した。十八日将軍継承内定を賀すため綱紀と吉治が登城し、太刀備前国宗忠(金十枚相当)と馬代金二枚、吉治からは太刀備前国正次(百五十貫相当)と馬代一枚を献上する。
二月十日能登四郡宛に百姓が訴訟や見立・御貸米を請求する場合には、前々の通り村肝煎や組合頭を通して十村へ届けること等を確認し、風俗を質素にするよう諭した。三月二十六日江戸城で鍋松が元服し家継を名乗り、四月二日内大臣・右近衛大将と征夷大将軍・源氏長者の宣下を受け、五歳の武家の棟梁が誕生した。月光院も従三位に叙される。同日には綱紀と吉治も登営することになっていたが、綱紀は「御痛」で登れず吉治が衣冠姿で登城し、御時服十・御肴一種・御樽一荷を拝領した。また家宣正室が天英院として従一位に叙され、吉治は御時服六・御肴一種・御樽一荷を下された。十一日綱紀と吉治が将軍宣下を祝し登営する。家継は間部詮房の教育で年齢の割には成長が早く、新井白石も驚くほどであった。
五月八日二條吉忠に嫁した栄君が懐妊し、金沢から南保玄隆と御針医高桑玄春に上京の命が下る。だが栄君は六日から不調を訴え、十五日疱瘡であることが判明、十八日金沢へ飛脚が到来し急ぎ南保と高桑が出発する。江戸へは十九日に知らせた。幸い胎児には悪影響無く、六月三日に辰姫(有栖川宮職仁親王妃淳子)が誕生し六日金沢。八日朝江戸へ報告が着く。瑞龍寺では五月十八日から二十日にかけ前田利長の百年忌法会が行われ、御名代として本多安房守が赴いている。閏五月四日綱紀は将軍宣下を祝して老中を招いた。十六日家中や寺庵で三笠附(俳諧前句)を行うことは、大勢集まり火の管理が不徹底になりがちであるとして禁じる。同日大聖寺の財政困難で八人を加賀藩で引き取ることにした(御抱守九里喜兵衛・神戸十右衛門、御側小将佐々庄太夫・坂井藤太夫・同源蔵・麻生左源太・平田清丞・河崎林左衛門)。二十七日から旱魃で、同月干鰯等の肥料について浦方から直接百姓に購入させ、仲買の介在を厳禁した。七月四日家中の漁労を認める。
綱紀は十一日に就封の暇を受け、来国次の御刀代金百枚と御馬二疋を拝領する。八月十一日江戸を発ち二十一日高岡で宿泊して二十二日夜五ツ時金沢へ着いた。十五日には利章も帰国の途に就くが、その道中に御供の家老神谷内膳への大聖寺在住家中に反発が強く同行させると騒動になりかねない、という訴えが大聖寺から届いた。二十五日に金沢へ入った利章は大聖寺から家老佐分舎人を召して御供を命じ、神谷を金沢に留め翌日出立する。綱紀は二十日に魚津まで来ていたが、大聖寺で家中が騒動を起こしていることを金沢から連絡を受ける。家中の困窮に神谷内膳が対応策を講じないとして憤激している趣旨の飛札が、大聖寺家老生駒源五兵衛より金沢にあったとのこと。九月四日対応協議のため利章が金沢に来て(十月二十二日に帰るまで度々登城)、五日佐分と生駒を金沢に召し、二十八日に深町治左衛門等五人を召して報告させる。十二月三日平士が官職名のような通称を用いることを禁じる。二十九日老臣の序列を定め、諸大夫は官職就任の順、その他は寛文元年に七手組頭の序列を本多政長・前田直之・長連頼・横山忠次・前田孝貞・奥村栄清・奥村庸礼の順に定めたことを準用すると告げる。
同四年正月一日綱紀が諸大夫からの年賀を受ける。江戸では十二日に月光院名代で寛永寺と増上寺に参詣していた御年寄江島等が山村座で芝居を観た後で歌舞伎役者の生島新五郎を茶屋に招いて宴会をした結果、江戸城大奥の門限に遅れるという失態を犯した。評定所の吟味で江島は遠島の所減刑して高遠内藤家に御預け、兄弟は斬首や重追放、生島や山村座元の山村長太夫は三宅島や伊豆大島へ遠島、芝居小屋の夕方営業の禁止、大奥の風紀を緩めたとして関係者一同の処罰で五十人程が連座する大事件に発展する。二十八日利章が金沢に来た(十八日帰る)。
富山で二月七日夜に足軽番所から出火し翌日本丸を焼失してしまう。金沢から急使御大小将堀半右衛門が派遣され、富山へは辰ノ刻に着き様子を見聞して、申ノ刻には出立し夜丑ノ刻に金沢へ帰着する。二十一日金沢城で将軍宣下を祝して能が催され、利章・姫たち(誠姫や窕姫か)や年寄・御家老に御料理が振舞われた。二十九日利長百回忌法会終了を祝し金沢城で能が催され、瑞龍寺・如来寺・宝円寺・瀧谷妙成寺・芳春院・玉泉寺・天徳院看坊が招かれた。同月一季居奉公人が不足し町方で適する者を調査させる。
三月一日金沢城橋爪門内の御厨飼料所で放火がある。前日夜の泊番が原九左衛門組半井七郎兵衛と分部源左衛門であったので両名を聴取したところ、分部が蝋燭に火を点け投げ入れ御定書を焦がし、御厨の鍵を紛失させたことを白状する。さらに吟味を加えると、橋爪番所の空穂(鞆=弓を射る時に左手首の内側につけて矢を放ったあと弓の弦が腕や釧に当たるのを防ぐ道具)を取出し切捨て、頭役の悪い噂や金沢中を焼きまくる等と落書きし、門の鍵をねじって開けにくくしたことも判明した。分部は学もあり人品も悪くないことから人々は不審がったが、とりあえず手鎖にして禁牢、一類は遠慮、丹次郎は一類に預け、二十一日公事場縄掛で刎首に処した。弟丹次郎は預けのまま、半井は構い無しとした。
八日綱紀は家中に他国へ出発前と帰着後に与えられていた休暇を廃止する。これまでは帰着後に御小将組は十日、御馬廻組は二十日休めていた。三月十一日家老前田修理等三人を大聖寺に遣わし、大聖寺での騒動の善後策を協議させる。四月十五日誠姫が輿入で金沢を発ち、二十二日に京へ着く。二十七日三條西家へ入って寿君と称した。六月二日朝に出銀奉行岸村豊太夫が能登三崎権現の祠堂銀三十一貫目の使い込みが判明して自刃する。町医者の弟春昌を吟味すると博奕に使ったとのこと。五歳の一子は刎首、春昌は斬罪と家財闕所、一類は遠慮が申し渡される。
松姫が十六日に袖留・御鬢削の儀を行う。吉治は登営して松姫に紗綾五十巻・二種一荷・行器(ほかい)(儀礼の際に食物を運搬する容器)五荷を拝領し、天英院から眉箱・縮緬三十巻・銀百五十枚・行器五荷・三種二荷を、瑞春院(綱吉側室の伝)から紗綾十巻・一種一荷を、竹姫と法心院(家宣側室右近局)・蓮浄院(同新典侍局)・寿光院(綱吉側室大典侍)から一種一荷ずつを賜う。綱紀には二種、天英院からも同じ、その他からも一荷ずつ、吉治へは時服十と二種一荷、天英院から時服三と一種一荷、その他からも一種ずつを下された。松姫・綱紀・吉治からも物を献じる。月光院の名が無いのは江島事件のためか。二十一日家継から使者で綱紀と吉治に暑中の慰問がある。
七月二日江戸で家中が雇う家来の取締をしっかりさせ、出奔したら請人を捕らえ帰らせて禁牢の上で宥免する等を達した。十日大聖寺に派遣していた伊藤平右衛門等が戻り善後策として、家中に命じた借知は去年分を残らず返却し、今年分は半分返して来年にすべて返却する、家中へ貸与した銀子は年賦無利息とし、江戸御扶持方は増す、神谷は金沢で逼塞させていたのを免じて留め置く、等を決めたことを報告する。
十八日綱紀は参勤の途に就き、その時城の下台所で白い雄犬を見つけ金沢から十里離れた所で放すが戻ってきてしまい、越中領で飼い主を探している。途中の坂本駅で老中秋元但馬守喬知が重病との知らせがあり、御大小将山崎九郎右衛門を急派して慰問した。その後秋元は老中を辞職し八月十四日に卒す。二十九日江戸に着いた綱紀は翌日上使阿部豊後守と会い、八月十一日登営し参勤の礼を行う。十月二十日水戸藩下屋敷から出た火が茅町から湯島天神女坂まで延焼し、綱紀と吉治が指揮して大聖寺藩の屋敷への類焼は防いだが、富山藩の長屋に火が移り綱紀と吉治が見舞う。利興は外に出る道が無いため加賀藩御書院内を馬を引いて通り、翌日綱紀から注意を受けている。またこの時に火消のため出動した家中に大聖寺藩邸前まで馬で来たことも注意し、これからは広い所に馬を繋ぎ狭い場所には徒歩で来て屋根に上るよう命じた。二十一日江戸屋敷での三笠附は博奕同様の賭勝負であるとし、さらに酒食を売り質物を取るような行為を厳禁した。
十二月二日将軍代替わりを祝す琉球使節の江戸上りが来るため、吉治が江戸城に登った。一行は四日増上寺、九日上野に詣でるため南御門前を通行する所を綱紀と吉治及び節姫(安芸御前)や家中が天沢寺と御長屋の間に設えた上覧所で見物する。一行は二十一日に江戸を発った。十一日家継から綱紀と吉治に寒中の見舞がある。十六日米価下落のため会所銀を借用する家中に返済期限を来年三月まで伸ばすことを告げる。二十九日江戸で児島平兵衛を二百石で召出し藩の儒者とした。
二十五、物価との格闘
同五年正月十二日境奉行に命じ支配所内の百姓で江戸や京など領外に留まっている者を調査させ、帰国するように促すことを達した。二十四日これまで十村を通して塩を一俵六匁八分で販売し手数料の口銭は取らなかったが、全国の塩価格に適応させ十二匁二分まで引き上げ、この内二分を口銭として徴収することを触れる。二月八日保科正経に嫁いだ利常女の熊姫こと仙渓院が六十四歳で寂。三月二日能登から加賀と越中に回漕する塩の運賃を改定した。奥郡から高岡までは一俵に付五分を一匁、奥郡から越中各地へは四分を七分、鹿島郡黒崎村から氷見へ二分を三分に増す。十四日境奉行に金沢木屋平兵衛等三人が江戸中荷持に任じられたことを伝えた。二十二日江戸中荷持の毎月差立期日を従来の九・十九・二十九日は二十九日のみとし、新たに二・六・十二・十六・二十二・二十六日を加えた。
能大夫諸橋権進の伯父が十三日に病没したため服忌し、四月一日・二日に恒例となっていた観音院の能を止める。十三日から金沢城内権現堂で東照権現百回忌法会を営み、十七日吉治は上野御宮を御参拝、御附人持組前田権佐恒長を日光山へ代参させた。綱紀は熊姫の忌に服すため御名代を出すことは控える。十八日綱紀と吉治が登営し、日光山法会の終了を賀し二種二荷を献上した。五月一日には下向している右大臣二條綱平の旅館を綱紀が訪ね、六日今度は綱平と大納言油小路隆真を招き、御白洲で吉治が出迎えた。六月二十五日家継が綱紀と吉治に暑中の安を問う。七月二十八日綱紀と利章が登営すると家継の体調が思わしくなく、御黒書院で綱紀は就封の暇を老中から受けて御馬二疋を拝領する。利章は御時服と御馬一疋を拝領し九月六日に江戸を発った。
八月二十二日物価高騰で江戸詰家中はこれまで百日江戸詰すれば一人二百目が手当てされていたがこれでは不足のため、帰国したら百日分をさらに下すことを告げる。二十六日境奉行に決めたばかりの江戸中荷持を廃止することを伝えた。せっかく任じられたたものの六度の中荷持では採算が合わないと断ってきたとのこと。そこで二十六日限りで廃止して三度中荷持を拡大し毎月六度ずつ勤めさせることにした。九月四日綱紀が江戸を発ち、十五日夜に金沢へ入った。
家継が回復し、七日吉徳から一種一荷、十六日綱紀から二種一荷を献上する。十七日利章が金沢に立ち寄り、二十日まで登城して夜に大聖寺へ出発した。十月四日に物価引き下げを令し次のような趣旨で諭した。全国的に物価が高騰し、領国では従来米価は他国より安く諸物価も低いのに、近年は逆になってきている。藩が買い上げる分も高値になり出費がかさみ、家中でも難儀している。町方・御郡裁許の面々はその所々の町人や百姓が潤うように心掛けるのは当然であるが、領国内で出来た品や他国から入れた物の価格を引上げて売り出し莫大な利を取っていることまで、その所々の潤いと短絡的に考えていると聞く。これは急ぎ詮議して諸物価を下げるよう命じる必要がある。他国への統制品まで密かに売買しているとのことだが、このようなことだから猶更値が上がってしまう。また他国へ物が流出し領内で必要な分が不足するため自然に高値となってしまう。所々の奉行家来や手先小役人あるいは十村・肝煎等が町人や百姓と馴合い、私曲がましく他国へ物が洩れても奉行へ隠しているとしたら、それは主人の落度である。小役人等は自分で使う分を安くさせたり分量を多くさせたり、すでに木呂等は良いものを引棚と称して別除けし、これ以外を平売にしていると聞いている。商売物を依怙贔屓するような行為は賄賂である。売出す時に損料を加えて高値にする等の行為が判明したら急ぎ吟味する。近年は町人や百姓が殊の外華美になり、万事に付き奢ることが多く侍にも慮外なことをする。このようなこともその分にはしておかないよう申し付ける。
二十日能登に宛て百姓の衣服器物を質素にするよう令し、近年は絹羽二重等も用いているようだが絹の類が殊の外高値になっている、そもそも御定にも背いている、と指摘し、十村・御扶持人を始め紬や木綿の外は着ないよう達した。二十四日三笠附を禁じた幕令を領内に伝える。十一月家中が鷹狩で鶴や白鳥を捕らえることを禁じた。十二月十二日扶持米を受ける者に与える屋敷の面積につき尋ねた回答が届く。百石当たり歩高百七十歩の定めは二十五人扶持と同じであるとのことであった。十六日綱紀は田中左源太(三百石)から神道大意、中泉逸角(二百石)から桐の間で小学を講じさせ、白銀十枚ずつ下す。夜に藤沢勾当から平家物語の講義を聴いた。十八日吉治が登営し家臣一人の叙爵を許可されたため、二十九日金沢へ早飛脚を送った。本多木工政質(まさただ)を召出し安房守を仰せ付ける。ただし尾張徳川継友の弟で松姫の実兄松平左近衛権少将安房守通温と同じ官名のため幕府から改めて周防守か石見守を提示され、翌年二月十一日に周防守に改めた。二十一日金沢で三笠附をすれば刎首と触れた。二十三日家継が綱紀と吉治に寒中の安を訪ね、檜重を下賜する。晦日大聖寺家老の神谷内膳守応に金沢城大広間で奥村内記から依願による隠居を許し加賀藩へ召返して隠居知五百石を給すことと、子息太郎助を加賀藩の寄合組に編入することを告げた。
同六(一七一六)年正月は大雪の年であった。二十九日犯罪者逮捕に関し変更する。これまでは盗賊や疑わしい者を捕らえたらそれぞれの頭や支配裁許に引き渡し盗賊改方へ廻すことにしていたが、途中で脱走することもあった。以後は盗賊改方が一手に引き受けることにする。二月十八日価格引下げを改めて令す。昨年に令した効果がまだ無いし、肴等も領内に流通していない。他国へ出したり漁労を止めたりする者も出ている。能登や新川郡では鰤や鱈等を他国者へ売ったり、海上で商売したりするものだから領内には御用の分さえ回ってこない。薬種や蝋等は昨年冬に比べて安価になったはずなのに、どこに隠したのか不足している、等と指摘し物資を領内に留めるよう命じた。
二十六、徳川吉宗に将軍宣下
三月十五日に綱紀は利章と長又三郎を連れて前田孝資の屋敷を訪れ、広式で豊姫と会う。四月十六日金沢城内の東照宮社僧から祭儀について報告がある。
風邪で臥せっていた家継が三十日に急性肺炎を起こし八歳で薨去する。阿部豊後守から聞番湯島甚右衛門が呼ばれ病気のことが知らされる。御三家が召集され天英院から紀伊の権中納言徳川吉宗(三十三歳)に御後見の依頼があって二ノ御丸に入っていた。吉治は翌五月一日辰ノ中刻に登城し事態を告げられ、御馬早乗で戻り御居間書院で本多図書・前田権佐・藤田内蔵允・永井織部を召して議した。松平左京大夫から知らせで吉宗が家継の養子として相続することを告げられる。二日吉治は二ノ御丸に出仕し吉宗を上様と称す。三日と四日も登城した。四日に家継薨去が金沢へ達し、翌日家中へ知らされる。六月六日御三家と綱紀に家継の喪が三十五日過ぎ終わったため、明日から月代を剃ることが許された。七日吉治は老中井上河内守正岑の屋敷に赴き、吉宗に誓書を提出した。二十二日将軍交代が相次ぎ、幕府主導で享保への改元が布告される。二十四日上使森川出羽守から家継の遺物として、綱紀が正宗小脇差代銀三千貫、吉治が則重御脇差代銀千五百貫を拝領し、二十六日本多図書が登城し御太刀を、二十七日吉治が登城して備前元重の太刀と金子を献上した。七月一日に改元が江戸に伝えられ、綱紀は老臣を召し新たに誓書を提出させ次のような施政方針を示す。綱紀は吉治がまだ若くて間違いがあるかもしれないので、中川式部を家老として付けるつもりである。刑罰は次第に緩くしているが程度物であり、吉治の代に替わって急に厳しくなったと言われないようにしないといけない。空席の小松城代に前田修理、御先弓頭に吉田平兵衛や左京を任じる等、綱紀七十四歳 吉治は二十七歳である。五日大坂御蔵が火事のため六万五千石の米が失われた。
十八日綱紀は金沢を発して参勤の途に就き、二十八日に中屋敷に入った。幕府は二十一日に近江・若狭・能登・加賀・越前・越中・越後・佐渡への巡国使を任じる(使番鳥居権之助成豊・小姓組日向左京正茂・書院番小笠原八右衛門長方)。二十八日利章が登営して参勤の礼を行う。八月九日には綱紀が参勤の御礼を言上した。八月九日書や和歌に勝れた山本源右衛門基庸を江戸勤めに替え、山本は綱紀へ感謝の意を書で示した。
吉宗は将軍職に八月就任(十三日に正二位権大納言、十八日に征夷大将軍・源氏長者宣下と内大臣兼右近衛大将への転任とも)し、綱紀は十三日に御束帯で登城することになっていたが、持病痛で障りがあるため吉治が名代として登った。二十一日綱紀は内大臣二條綱平を屋敷に招いて能を催し吉治も舞う。二十八日座頭等へ施物・祝儀がある時に請書を提出することを確認した。九月二日吉宗は御三家と加賀のみに祝儀を下賜する。大久保佐渡守常春が御使として訪れ、綱紀へ御腰物代金十三枚と時服二十・一種一荷、吉治へ同代金七十五両と時服十・一種一荷が下された。十四日金沢稲荷橋山本三河が京の土御門家から三州の陰陽師小頭を命ぜられる。十九日綱紀が戸田山城守屋敷に出向き吉宗への誓書を提出する。徳川家宣の猶子となっていた近衞家熈女の尚子(家宣正室近衛熈子が伯母)が女御として入内することを祝し、二十五日綱紀が御馬廻頭佐々木左兵衛定賢を京へ派遣した。
十一月十日物価騰貴のため家中に倹約を守らせる。小身の諸士が鷹を飼うことも同年に禁じる。二十一日から将軍宣下祝賀のため老中等幕閣を招請し、能や三汁十菜でもてなした。十二月九日吉宗から綱紀と吉治に寒中見舞の檜重が贈られる。
同二(一七一七)年正月一日綱紀が登営し新年を賀す。二十二日申ノ刻江戸小石川馬場側から出火し、本郷・駿河台・小川町・神田より郭内へ火が移り本町・石町・日本橋から深川に及ぶ。その際に大聖寺の火消鳶も出動するが、お茶ノ水定火消仙石兵庫の鳶と争いになり半死半生に打ち伏せた。利章は仙石側からの抗議を受け流し綱紀もこれを支持する。利章には幕府から六月十二日に防火の功が賞せられている。二月十日宿駅に立つ高札の文字で不鮮明な物を改めさせた。同月の非人小屋収容者は減少し千百四十七人であった。正徳元年の高辻帳を幕府へ改めて提出する。
三月四日吉宗代替の武家諸法度が老中に渡され、七日諸役人、九日御三家が拝見する。十一日諸大名登城の命で綱紀が体調不良のため吉治が登り閲覧し、これより華美無く政事に怠慢の無い様にとの上意であった。四月二十五日幕府巡国使(回国上使)鳥居権左(千五百石)・小菅猪右衛門(千二百石)・御目付天野伝兵衛(七百石)が越前より到着する。二十七日金沢を大樋町まで町奉行二人が見送り津幡で宿泊している(七月十五日江戸着)。同月八丈島宇喜多氏への贈与物を幕府へ届けた。五月十九日に綱紀は吉宗が鷹狩で捕った梅首鶏(鷭(ばん)のこと)を拝領し、二十二日御一門・御出入衆を招いて披露して三汁九菜や御盃・御囃子で饗応、吉治と利章も御居間書院で頂戴した。六月金沢で家中がみだりに夜行することを禁じた。
二十七、木曽路から帰国
七月二十七日上使井上河内守が訪れ綱紀に就封の暇を賜い、御時服百と白銀千枚を下賜する。この後に井上河内守を饗応するが歯痛で御料理を断ったため葛切と御吸物を出して吉治が御相伴した。御盃事があり御腰物志津代金三十枚を献じて吉治が大御門外まで見送った。二十八日綱紀か登営し就封の辞見をすると、吉宗は手づから御熨斗を渡し、御腰物備前正恒代金百枚と御鷹(実は雁と鶴)・御馬二が下された。利章も就封の暇を賜い、御腰物越中則重と御時服を拝領する。九月二日封国の判物を下すため登城が命じられ、綱紀は老中や若年寄に就封の御礼があるため、利治が代理で判物を受けた。二十一日綱紀は去年冬参府の際に栄君と対面するつもりであったが体調すぐれず見送ったことから、今年はそのつもりで木曽路から帰国したいと老中に相談すると、すでに昨年許可しているのだから二度も申請は不要との返事であった。二十三日帰国に従う家中の旅費増額が出願されるが却下して戒める。山や坂があるため具足櫃等を運搬する者が夜中まで杖を突くことの許可を求めると、綱紀は笑って夜中といわず城下や駅以外で用いることは勝手次第と答えた。越中沿岸では二十二日に大波があり泊に被害が出ていた。二十四日郡奉行高畠定恒が急ぎ救援に赴き駅を修理するが、このことも帰路変更の要因になっていた。能登珠洲郡でも高浪で潰家二軒あった。
利章も二十四日に木曽路から帰国する。綱紀は従う百石以上の家中には通馬増銀を増やさないこと、とりあえず人足には一人一日三匁八分九厘七毛、通馬には一疋一日六匁を渡す、等を令した。二十七日快天の中江戸を発し、吉治が鏡坂まで見送り、武蔵桶川に着く。二十八日本庄、二十九日上野坂本、十月一日信濃望月、二日下諏訪、三日薮原では信濃松本水野出羽守忠周から進物がある。四日福島関門を通るが、事前に御鉄炮所持数で一悶着あった。通過規定では尾張と紀伊が二十五挺を許される他は加賀藩五挺、諸藩は禁止されていた。平素は下街道や東海道で六十挺と玉目六匁ずつ所持して通っていたことから木曽街道でも同様と考え福島関門の過書を作成させ申請していたところ、老中水野忠之は綱紀自身が書類を記載すべきだと受け付けない。綱紀は林大学頭を通じて抗議したため吉宗は裁可した。福島では関守の山村甚兵衛から歓待され無事通行して野尻に着、五日美濃中津川、六日御嵩、七日舟で川を渡って赤坂に着き関ケ原は見えず、吉治と利章から御機嫌伺の飛脚がある。八日近江木本で彦根の井伊掃部頭直惟(なおのぶ)の使者を引見し、九日今庄で福井松平伊予守吉邦の使者を引見する。十日金津、十一日小松、十二日松任、十三日に金沢へと入って結局京都へは寄らなかった。
十一月六日吉宗が綱紀に鷹を下賜し、吉治が替わって拝領する。十一日御鷹匠二人と御餌指一人を添え金沢へ送った。二十一日吉宗は綱紀と吉治に寒中見舞をした。
加賀・能登・越中三箇國百貳拾萬貳千七百六拾石之内、加州江沼能美二郡之内七萬百七拾石餘、越中婦負・新川二郡之内拾萬石、能州四郡之内壹萬石、以上拾八萬百七拾石餘除レ之。殘百貳萬貳千五百九拾石餘、并近江國高島郡之内三ヶ村貳千四百三拾石餘、高百貳萬五千石餘[目録別紙ニアリ]事宛二行之一訖。依二代々之例一領知え状如レ件。
享保貳年八月十一日 吉 宗 在判
加賀宰相(前田綱紀)殿〔越登賀三州志〕
高浪被害があった泊では九月二十四日夜に高畠定恒が東岩瀬を発し巡視しながら魚津在住和田孟貞を訪ねて救援米を御蔵から出すことを決めていた。本来魚津町奉行岡田直起と合議して決めるべきだが岡田が不在のため緊急に高畠の判断で四十石を御貸米扱いで出し、諸村を廻って夜に泊へ入る。翌日駅での通行人の便を図ることを指示し、御貸米給付と駅の移転を金沢へ請求するため二十六日に出立した。報告(潰家百二十七軒・損家百十四軒・橋損十一か所・流失舟と損舟二十六艘・稲流失一万八千三百八十一束・米流失八十三石・雑穀流失三百石・塩流失百二十一俵等多数)を済ませ二十七日夜泊へ戻った高畠はもう一人の郡奉行松田左兵衛以敬と諮り翌日に金沢へ御貸米を請求(再来年暮から十五年賦)することに決め、十月十一日に五百石を申請すると綱紀が許可し、高畠は東岩瀬へ戻って移転計画を立てる。この頃宮腰では魚の口銭を巡り粟ヶ崎と争い翌年敗訴する。責任を感じた奉行馬淵高定は住民に謝して私財を佐那武神社へ寄進し辞職する。その後任に高畠が任じられた。
同三年正月封銀の口を破り贋銀と差替えた跡が見つかり公事場で吟味がある。二月十七日神谷内膳と同太郎に一柳監物が以前暮らしていた屋敷の内から前田中務が住んでいる屋敷を拝領されたいとの願いが奥村伊予守からある。十九日家中で無用の会合を行うことを禁じる。三月に新川郡奉行として斎藤市ノ丞元直が着任し、泊移転の測量を定検地奉行と行い、これまでの場所から西五丁ほどで沼保村と荒川新村の田地一万千七百余歩を用い地盤を固め被災者を移転させる。四月二日幕府から加賀より見える越中・能登・飛騨・越前の山、越中から見える能登・飛騨・越後の山を報告するよう指示があった。十一日幕府から江戸城で刀持を玄関式台まで連れてくることに関し、御三家と連枝・越前家・讃岐高松松平讃岐守頼豊・松平肥後守正容・伊予西条松平左京頼渡(紀伊に転出した頼致の弟)等と綱紀と吉治に限ると達しがある。六月二十一日参勤に供奉する近習には奥納戸銀の借用を許すことにした。同月に八丈島の宇喜多氏から昨年七月二十九日に白米四斗入七十俵が船で届いた感謝と、田作麦作とも良くないため今年も困窮していると贈与を請う書状が届く。
七月十六日綱紀が参勤の途に就く。京へ寄ることも考慮したが頭痛で断念したとも。途上新川郡魚津町では大正寺屋弥兵衛の百一歳になる母へ白銀五枚を給す。泊町に宿泊すると郡奉行松田以敬を召し当地の洪水について尋ね、松田がこれまでの様子を報告し町の場所を変更したい旨を願えば、綱紀はさっそく和田や岡田も召して議し、十九日被災地を視察した夜に許可してすぐ算用場と相談するよう指示した。二十七日江戸へ着いて、翌日上使戸田山城守から慰問を受けた。神谷父子へ付与する屋敷について奉行の手続きに不備がないか詮議し八月十日許可を出す。二十八日に綱紀が登営し参勤の御礼を言上する。吉宗は代々の将軍が御短刀を帯びて迎える習慣を就任以来止めており、手ずから御熨斗鰒(あわび)を進めて、いつもは二筋だが今日は七つ八つばかりも入手できたと気さくに話しかけた。十月三日綱紀は吉宗に招かれ、御三家・溜詰・雁の間詰・奏者番・高家・諸有司と共に左少将飛鳥井雅香(まさか)の蹴鞠を観覧し、白木書院で鞠道の御判物を頂戴する。五日豊姫が江戸で卒す(三十二歳)。金沢へ御大小将原田又右衛門が急ぎ十四日に着く。京の栄君へも金沢から御使神田左太夫が遣わされ、前田大炊へは香奠白銀百枚が下される。
二十八、火消の喧嘩
閏十月二十八日聞番が久世大和守から呼ばれ新金銀通用が予告される。十一月一日から通用とのこと、金沢へ十一月十六日宝永銀吹改と新銀三十割増のことが伝達された。十二月三日吉宗から綱紀と吉治に寒中見舞の檜重が贈られる。この日夜に江戸本郷弓町で火事がある。綱紀は十月に上中屋敷で再編していた防火の鳶九十六人人(合紋革羽織)を十一月二日・三日に就役させていた(加賀鳶)。日暮里の火災では三隊出動して定火消より早く到着している。この時も早急に駆け付けるが、遅く着いたのは先に利章と揉めたあの仙石兵庫の定火消であった。必然的に双方喧嘩になって仙石側に死者が出たため抗議が来る。翌日綱紀は聞込みをさせると消火させたのは加賀側で暴行したのは仙石側であることが判明し、老中井上河内守に伝えた。仙谷は七日市縁者の旗本前田帯刀孝如を介して幕府へ訴えることを加賀藩へ伝え、実際若年寄を通じて井上河内守へ訴状を提出した。二十日仙石からの書を持って御先手鉄炮組六郷主馬が上屋敷を訪れ、大小将頭黒坂景永から事実説明を受け当惑しつつともかく口上書は渡した。すでに綱紀は林大学頭を通じて書状を井上河内守から吉宗へ渡し、吉宗は大岡越前守忠相へ調査を命じている。大岡は弓町名主等から事実を聞き出すものの仙石はなおも六郷を介して加賀藩へ賠償を求めるが、辟易としていた六郷は二十八日に登営し他の火消方へ事実を説明し、晦日吉宗は仙石の召喚を命じて火消を罷免する。同年物価高騰のため江戸詰近習に月に五分の利息で御納戸銀借用を許す。
同四年正月十六日江戸で割場規程を設け、寄親の無い足軽・本座長柄御小人・御供廻家中役人を裁許させ、御使・飛脚・防火等を担当させる。三月四日吉治が船で江戸郊外平尾へ赴き鷹狩をする。同日綱紀は幕府老中へ、京極式部卿家仁親王江戸御下向に際し訪問致したい旨を申請する。八條宮家であり、二代目の智忠親王妃は光高御妹、後水尾天皇の御筋でその後代々が養子で引き継がれ、七代目の霊元天皇御子文仁親王より京極を称され、家仁親王はその御子にあたられる。十五日前大納言中院通躬(なかのいんみちみ)を本郷邸に招き、仕舞や囃子で饗応する。同日には江戸城で吉宗の側室梅が男児を産み(源三・夭折)、綱紀は登営して祝す。吉宗は紀州時代に正室として、伏見宮貞致親王の王女理子(まさこ)女王を宝永三年に迎えていたが、同五年五月二十七日死産の後六月四日二十歳で卒去、側室が正徳元年十二月二十一日男子(家重)、同五年十二月二十七日男子(宗武)を産んでいた。十六日左大臣二條綱平を本郷邸に招き、能は断られたため乗馬を披露する。二十一日綱紀と吉治が登営し源三の御七夜を祝して綱紀が三種一荷、吉治が一種一荷を献じ、家中で源蔵と称する者を改めさせた。二十四日春以来体調を崩していた寿君が十九歳で卒す。
口銭制度の調査に当たっていた改作奉行佐藤仲左衛門成種は小物成を精査すべきと進言し、違反事実十四条を列挙して算用場と改作方の責任を指摘する。佐藤は算用場で役人の怠慢を難じて問題が拡大し、綱紀は佐藤を閉門ではなく謹慎にとどめ指摘のあった事実の有無を改作方へ調査させる。三月に報告が上がり小松・金沢・宮腰・所口・高岡等で魚問屋の小物成について指摘の内容は確認されるが厳罰に処すべきほどのことは無いとあった。佐藤は翌年五月十八日に自刃する。
二十九、朝鮮通信使御用
四月二十四日京から侍従四辻実長の使者岡本式部が訪れ、綱紀に例年大坂着米二百石ずつ援助してもらっていることを謝し、御太刀馬代・干鯛一箱・墨蹟御掛物一幅・橋打杖(能で用いる神通力等を使うために持つ杖のことか)一箱と御状の入った箱を、吉治へは御太刀馬代・干鯛一箱・十体(じってい)和歌(十の風体を例歌によって示した歌学書)一帖と御状一封を贈る。五月に吉宗の就任を祝すため朝鮮通信使が来朝することが告げられ、幕府へ加賀藩から人員を提供することになり二十六日から順次六月まで発令する。六月二日には奉迎のため遠江と江戸に派遣される足軽八十三人(江戸から五十一人で四人は小頭、金沢より三十二人で二人は御横目足軽)、割場附小者七十七人(江戸から七十四人・金沢から三人)、日用高二百九十七人(二人は日用頭・六人は杖突)を定め、金沢から遠江舞坂まで馬片口として四十人、金沢会所から御荷物持として舞坂まで百人、江戸へ百五十七人が出向くことを命じた。
七月二十二日今年徴収する夫銀を五割増(五分の一を増す意)にする。二十七日に綱紀、二十八日に利章に就封の暇が与えられる。八月四日朝鮮通信使迎御用の向井右衛門等四人と御横目足軽三人が御使馬十疋を率いて江戸を発ち、舞坂から江戸本領寺まで御用のため以前に江戸から上(上等)馬を出して金沢からは中(中等)馬三十疋と予備十疋を出す。二十五日京に寄るつもりの綱紀が登営し辞見して御鷹二と御馬一を拝領するが、通信使や体調のこともあり出立を見合わせていた。この時の拝領馬は「松雲公御夜話」では二疋、享保三年に薩摩から献上された六歳になる五寸の福山青毛と同年府中で購入した六歳になる三寸五分の中村鹿毛とある。
吉宗は七月二十九日に綱紀へ加賀藩本草学者の稲生宜義(若水)が編纂していた『庶物類纂』のことを尋ねる。漢籍等から植物・動物・鉱物・薬物等の記事を調査分類した大著で、千巻作る予定であったが三百六十二巻できた段階で若水は正徳五年京にて没す。あとを門下の丹羽正伯等が編纂していた。綱紀は戸田山城守を通じて九月十一日に三百六十巻献上する。その後の元文三年に千巻完成し加賀藩が受納して、吉宗の命で増補し延享四年千五十四巻になった。八月二十五日綱紀は上京の許可を改めて得て朝鮮人参を取り寄せる。
綱紀と吉治は九月二十七日朝鮮通信使の到着を御供八十六人(平生より四十四人減らす)と火事羽織持五人・才領足軽一人で浅草に観た。吉宗は朝鮮通信使への待遇を元のように戻し、国王から大君の称へ復している。十月十二日対馬の宗義誠屋敷で朝鮮の曲馬を観ることになっていたが、綱紀は利常の祥月忌辰のため吉治が代りに出向いた。十五日通信使帰国の模様を節姫・英姫・窕姫が浅草日恩院で観覧し、観音金龍山へも詣でて夜に帰った。
綱紀が二月に加賀藩の里子と幕府の上り者との違いを調べるよう命じ、近習御用大野木舎人が聞番を通じて内田玄徳に依頼していた回答が十月十七日にある。幕府で上り者と言っているのは親が重い御仕置になって親類がいない女を御右筆や奥向女中衆等へ入れる場合であり、悪所や比丘尼勤め等をしている女を抱置く者へ御仕置した結果行く所が無くなった者も意味しているという趣旨であった。同月綱紀は帰国しようとするが、二十日から寒気で二十二日朝には初雪が三・四寸積もり、このような中の出立を吉治と姫たちが強く止める。そのため幕府へ出立延期を申請し十一月四日に春まで在付することを認可された。十二月吉宗は寒中見舞に稲葉下野守と角南主馬を上使として遣わし、綱紀と吉治に檜重御菓子を賜う。九日吉治が御礼のため登城すると、吉宗は綱紀の健康について尋ね朝鮮通信使が献上した黄鷹二連を下す。また平尾の下屋敷が広いことを聞いたからここで鷹を放して保養に努めるようにとも付け加えた。吉治は下城後に綱紀へこのことを伝え、十日綱紀は老中を通じて御礼を伝えた。
三十、綱紀上京
同五年正月一日綱紀は体調がすぐれず、御馬廻頭長屋要人昌倫が素襖を着て登営し御太刀を献上した。綱紀は老中を訪ねた際の取次慣習を利倉善佐に訪ね、利倉は水野和泉守取次中に聞いてまとめた内容を十九日に提出した。御三家なら地福外へ取次一人が出て御口上を承り在合の取次が白洲中程罷り出る、綱紀や吉治なら地福の内際に取次一人が出て口上を承り取次が白洲中へ罷り出る、中将の方々なら門の内で口上を承り取次が白洲中へ罷り出る、少将の方々なら内の雨だたきへ罷り出て口上を承り取次が白洲中程、十万石内外の侍従では白洲中程まで取次が出て下座筵際に外へ取次一人、四品の御方々へは下座筵二・三尺へはずし罷り出る、公家衆では大納言・両伝奏衆までは御国持大名の格で罷り出る、中納言・宰相・少将とも白洲中程へ罷り出る、というのが作法であるとした。
主上に第一皇子の昭仁親王(後の桜町天皇)が一日に御降誕あらせられ、綱紀は二十六日に御先筒頭茨木左大夫長基を京へ派して賀し奉る予定であったが、二十日に、御生母の近衛尚子女御が産後十九歳で崩じ給うたため日延べして二月二日に出立させる。六日増額した夫銀を元の額に戻し新銀で納めることを達した。七日辰ノ刻に松姫が御表に出て御舞台で女方人形遣いの名手と評される辰松八郎兵衛(人形浄瑠璃座本)の操人形芝居を観る。未ノ中刻に中入となり御好で人形浄瑠璃三流を望み、戌ノ刻まで続けた。家中や御大工等三百十五人が見物し、役者に御料理一汁五菜、供の者へは銀子を下した。十日幕府へ領内に住む刀鍛冶を報告し、この内金沢に住む清光五左衛門は高岡清光流で清光又兵衛から四代だが今は打物細工はしていない、今石動居住打物鍛冶の茂長忠兵衛義水は松倉にいた則重の筋目で十二代目であるが、はやっているほどではないとある。二十六日綱紀は品川東海寺僧侶を駒込邸へ招き、能七番と狂言三番でもてなし、帰りは吉治と共に御式台まで見送った。
黄檗山万福寺の獨文和尚が下向し尾張御医師志賀快庵を通じて加賀藩邸へ参上したいとの申し入れがあったため、三月四日に本郷邸へ快庵と共に招く。その際に希望のあった兆典司(ちょうでんす)(室町前・中期淡路生まれの画僧)の十六羅漢屏風を御小書院に建て綱紀と吉治が出迎えて三汁三菜でもてなした。十日京へ組外御番頭浅井左兵衛成正を派して、女御への弔意を示し御香奠を献上した。二十七日江戸では風が激しく綱紀が小松川辺まで見分する。午ノ刻過心配していた火が日本橋南三丁目薄屋町から出た。綱紀は上屋敷に人数を出し中川式部が出動する所、本郷口御門から綱紀も出馬し吉治も御邸内で乗馬し下知する。広徳寺等の寺院や富山藩下屋敷も類焼し二十八日に鎮火した。
四月二日ようやく綱紀は江戸を発ち、今度こそと京へ向かった。御守殿で松姫と会い辰ノ刻に御大色代から出て吉治が鏡坂まで見送る。浦和で昼を取り桶川で宿泊、三日本庄、四日烏川に水が無いのでそのまま渡り、厩橋の酒井雅樂頭親愛から御馳走人が来た。十日には中津川を発ち御嶽で宿泊、夜に行列奉行等が太合渡田等の渡し場で十二番までの舟を手配する。十二日赤坂川を渡ろうとするが昨日の雨で満水のため渡舟や歩渡(人足が担いで渡す)が断られてしまう。庄屋や問屋に頼み込み何とか十五人乗三艘ととりあえず人足百人を雇って増員できるように掛け合った。夜明けに川の水は三尺五・六寸まで減り、馬は人足が牽けば渡ることは可能だが舟が小さいため御筒や御弓等を入れられない。そのため一統歩渡に決め三艘で川中を仕切り、人足百人が上下に立って歩渡人足無しで渡り切った。綱紀が通行の時には人足を五十人増やして川中を仕切り、御馬上通行の途中で歩渡人足が腰切(腰までの短い着物)で渡す。十三日には越智川と姉川で水一尺七・八寸のため歩渡、横関川と安川が水一尺四・五寸のため二艘の舟橋が使えずやはり歩渡、十四日昼に草津、宿泊は大津で取り、いよいよ明日に入京を予定していた。そこへ蔵元の鴻池より飛脚が到来し、一日に敬姫が嫁いでいる池田吉泰の領国で大火があり、鳥取城も被災したとの報せである。すぐに江戸へ状況把握のため御大小将井上吉郎左衛門を派遣した。井上は即日江戸へ戻り夜に上屋敷で吉治に目通りし、十八日下通から金沢へ帰って二十八日着、綱紀へ五月十一日に報告している。綱紀は十五日大津を発し京の河原町屋敷に入り、大徳寺芳春院を御参詣、帰途に出入商人の大森三郎兵衛方で長袴に召し替え二條家へ入り栄君と対面し、夜には三條家や高辻家を訪れ、子ノ刻には京を発つという慌ただしさであった。十七日は大津で留まり翌日に出立して高宮まで、十九日柳ケ瀬で宿泊、二十日府中で利家へ先祖が籠細工を献じて御満足の御直筆を持つ百姓を引見し金子を下した。二十一日白鬼女の渡場には水が無く歩いて渡るが、浜松の松平伊豆守信祝は御馳走人と舟足軽人足を派遣している。綱紀は金津で泊り、二十二日に二條家へ北川久兵衛暉矩を派した。小松へ進み、二十三日手取川を通らず湊へ廻り舟で渡って酉ノ刻に金沢城へ着いた。
金沢では七日に元禄銀等の通用は明年までという幕令を触れる。五月二十九日幕府は窕姫が庄内鶴岡の酒井左衛門忠真の嫡養子主計忠寄(出羽松山酒井石見守忠予の次男)へ嫁すことを吉治に許す。五月に御馬廻組本保十郎を江戸に派して参勤延期を申請する。七月綱紀の体調が良くないため利章が参勤を延期したいと申請し、九日に吉宗は許して綱紀参勤の節に供をしたらよいと伝えた。十六日御馬廻組山本新左衛門は綱紀参勤延期が認められた御奉書を金沢へ持参する。八月十六日江戸へ往復する飛脚の沿革について、改めて綱紀に報告を提出した。
三十一、松姫卒去
九月九日松姫が「御肝気」不良で御灸治療をするが回復せず、十九日に早飛脚を金沢へ発したが、二十日夜九ツ半時に卒す。江戸からは御大小将松原善左衛門が夜に吉治の様子を知らせる御使として遣わされ、翌日に江守角左衛門が派される。二十一日綱紀は二十三日参勤の途に就いていたが、二十一日高岡と今石動の間でこのことを聞き落ち込み、十月六日鬱々として江戸へ着く。吉治は忌中のため御迎には出なかった。金沢へ悲報が伝わったのは二十五日である。江戸の綱紀は到着すると夕七ツ時に中屋敷に入り、吉治のもとへ赴いて対顔した。十一月一日利章が参勤の礼を行う。綱紀は膝痛のため登営を延期し、十二月二十八日になって吉宗に謁した。この時吉宗は感冒のため諸大名は老中にしか会えなかったが、御三家・溜詰と綱紀のみ御座所で拝謁が許され、上使筧新太郎から綱紀に鷹狩で得た鶴一羽を下賜する。
同六年正月一日体調不良の綱紀は中川式部長定を登営させて賀し太刀を献上する。二月十日能登の十村に夫銀や小物成等の割増上納を布達、奥郡十村からは幕府領の黒島村漁民による藤浜村海境への侵犯が上申される(四月十三日再度上申)。二十七日松姫の暮らしていた御守殿を撤去するよう指示し翌日から作業が始まる。三月三日綱紀が登営するが、午ノ刻三河町から出火し風が激しく、上野・広徳寺の方向へ火が進んで富山藩下屋敷の焼け跡を改めて焼いた。綱紀は上屋敷へ入って富山藩上屋敷へ二度見廻り火消へ出動の命を下し、暮頃に中屋敷へ戻る。四日には牛込木津屋町から火が出て加賀藩上屋敷追分御門を焼き、中屋敷が八ツ時に焼失する。綱紀と吉治は上屋敷で状況把握に努め、中屋敷を見廻ると御文庫は無事であった。七ツ時頃に上屋敷へ戻り、夜になって中屋敷の人員が上屋敷へ移ってきた。五日吉宗は奏者番土井伊予守利意を派して慰問する。富山藩の利興は昨年に御暇を受けていたが、松姫のこともあって帰国を延期していた。この日富山へ発駕し、使用しなくなった御貸小屋を加賀藩へ提供する。七日夜綱紀が腹痛を訴え、宗仙院が薬を調合し、堀部養碩と久保定能が針治療すると、八日に和らぎ九日には回復し十日行水している。十一日夕方御医者の待機が解除された。
四月十一日黒島村との紛議のことで江戸に出張している十村等に給付することが申請され翌日許可し、射水郡津幡江村御扶持人宅助と珠洲郡鹿野村恒方へ三人扶持と馬一疋ずつ、鳳至郡十村六郎右衛門へ二人扶持と馬一疋、砺波郡肝煎高辻村萬右衛門へ一人扶持を給す。十五日拝領の鶴を料理させ、御大書院で御一門、その他御居間書院で饗応する。吉治は利章を自分の居間に招き提供した。十七日綱紀は「御痛」のため上野東照宮・紅葉山への参詣を止めたが、吉治は吉宗に従い紅葉山を詣でる。
江戸の評定所による吟味の結果、六月二十五日鹿磯村が幕領黒島村に勝訴した。河北潟で捕れたシジミ貝・海老・雑鯸(ふぐ)を食べた町人が食中毒をおこし、二十六日御算用場が八田・才田の村民から聴取すると、先頃から大野・粟ヶ崎の潟で多量の伊勢鯉(ボラのことか)が浮かんでいたため浦方の者が拾って肥料にしていた、水を燕・雀等の鳥が飲み夥しく死んでいたということを魚荷宿の者から聞いた、とのことであった。二十八日魚問屋や同肝煎を町奉行所に呼び同心が吟味する。同月には天徳院百年忌の赦があり、死罪は追放、追放は一等軽く、軽罪は免じることを達す。
七月二十七日綱紀と利章に就封の暇が与えられる。翌日綱紀が登営し辞見するが、九月十八日から松姫の一周忌法会が伝通院であり、体調も良くないことから十月二十五日来春まで在付することを申請し許可を得た。利章は十月十一日に江戸を発っている。七月家中の屋敷にいる奉公人以外の十五歳以上男女数を届けさせ、十月百姓へ改作を第一とすること等心得を発した。十一月二十七日所蔵の府志類十三部を幕府へ献ずることを戸田山城守に伝え、翌年四月九日献納する。十一月は諸物価高値のため女衣服を華美にしないこと、会合の際の飲食は簡易にすること等を令す。同年には十五歳以上の領民人口を調査する。三ヶ国と近江高島郡内三ヶ村合計五十五万四千三百五十六人(男二十八万五千九十人・女二十六万九千二百六十六人)であり、寛文七年から二万三千六百九人減っていた。このうち新川郡七万八千九百五人(男四万千三百五十四人・女三万七千五百五十一人)、射水郡七万三千百七十九人(男三万七千三百三十七人・女三万五千八百四十二人)、砺波郡八万五千五百八十三人(男四万四千三百十四人・女四万千二百六十九人)で、越中領だけで二十三万七千六百六十七人(男十二万三千五人・女十一万四千六百六十二人)を占めていた。吉宗は諸国鍛冶の細工刀を観たいので提出するよう命じ、加賀藩からは兼若と勝国の作を持参した。同年金沢で綱紀が飼っている犬が子犬を産み飼い主を探す(同十年十一匹を越中領に下し首玉と札を付け野犬と区別させる)。
三十二、万事節約
同七年正月四日大学頭の林信篤が綱紀の八十歳を祝す。賀を漢文で整え封じ、新たに描いた武内宿祢に信篤が讃を付けた軸一箱、桑染と白の綿入二、栃木で作り黒ビロード包の机一脚、桑の木で作り鳩を握の上に彫った杖一株、祝樽一荷、樽魚一折を面取りした金具赤銅毛彫の島桐製箱に入れ、浅黄羽二重紋緞子で包み贈呈した。綱紀の御詠歌
乗捨し昔の竹の駒もがな 老のさかゆく杖とたのまん
宝生太夫の献
長生のことぶき天の給へる福、七十だにも稀なるに八十の齢を御持、猶行年も栄えなむ。御子孫も繁昌に領国も豊にて、君子萬年のほまれを永く伝へ給はんと歡の酒を奉る。目出かりける言ぞかし ゝ
綱紀からは十七日に御近習山崎彦右衛門を遣わし林信篤へ綿三十把・金五枚・塩雁一箱・干鯛一箱を、子息七三郎(後の林信充)へ綿二十把・御樽代五百疋・塩雁を、同泰介へ紗綾五巻・鮮鯛一折を、いずれも御目録で返礼した。二十四日金沢の山本源右衛門(組外組二百五十石)も和歌(老の佐賀八十路の麓八千年の 花吹く春に君やこゆらん)を奉呈する。
二十九日江戸で火事の際には火事場で頭巾着用等を家中に令す。二月五日江戸で富士南風激しく朝五ツ時松平甚九郎方から出火、本郷邸は風下にあり綱紀と吉治は加賀鳶を率いて出動し吉宗から賞せられる。本郷湯島の辺りでは雨が強かったが屋敷内は無事であった。八日には近習火消浅賀佐治衛門(作左衛門)と脇田半五右衛門の功を賞す。二十二日幕府は諸侯が領内の罪人を追放することを禁じる。この日から玉泉院百回忌法会を玉泉寺で執行した。二十八日吉宗は新国史・本朝世紀・寛平御記・延喜御記・令集解・律令抄・弘仁式・貞観式・法曹類林・為政録・風土記・本朝月令・律・令集解・類聚三代格・類聚国史を探すことを指示し、加賀藩も領内で探索させる。二十九日酒井忠寄が窕姫に納采した。
三月十五日諸大名登城で吉宗から御法会は軽く、諸事も同様、献上物や下され物は減少のこと等が命ぜられる。二十六日紀伊の徳川宗直が吉宗より綱紀へ贈るよう預かった『大明律例諺解』が送られてくる。幕府からも伝達があり、吉治は紀伊へ御礼を送った。
四月十九日富山で前田正甫の十七回忌法会があり、綱紀は御香奠として白銀十枚のつもりを先の幕令で五枚に減らし供えた。江戸では広徳寺で御茶湯があり、吉治は御大小将御番頭玉井藤左衛門を遣わして白銀二枚を供える。二十四日吉宗が所望していた法曹類林金沢本三巻・為政録十巻・伊賀風土記一冊を献上する。三十日に吉治は吉宗が家継七回忌法会で増上寺霊廟参詣のため御衣冠帯剣で予参する。四月一日の法会は公家の下向も断り節約の中執行される。金沢でも如来寺が焼失後のため天徳院で御法会を執り行った。
五月一日幕府は今年から端午・重陽・歳暮の御拝領物を取り止めることを令し、綱紀への下賜も例外なく停止するが、六日に在府延長は許可した。二十六日吉宗は室鳩巣(新助)に綱紀の政治手法を問う。室は下問の事を綱紀に伝えるとしつつ、さしあたり家中跡目の時に幼少者へは元服まで知行の三分の一に減じて余は財政に組み入れている、という政策を言上するにとどめた。吉宗の足高による人材登用は綱紀を模範としたとも言われるところ、かねてより役料を給して平士を抜擢し、御用部屋を設けて直属させる。一方で功労のある八家を公儀御用(幕府との仲介)と人持組頭に任じ、家老を人持組から任じた。また家中子弟を加領与力(元和二年設置)とし、元禄期にあっても減給は政策から外すよう心掛けた。二十九日能登・石川・河北や松任に宛て郡奉行より城鐘の音が達する範囲を報告させた。
六月六日綱紀は幕府へ『類聚国史』の中から三冊を献上する。これには偽書が多いため林大学頭に鑑定を依頼した上であった。二十八日聞番菊池甚十郎が老中水野和泉守に呼ばれ、能登の旧土方領一万四千石余で日根野小左衛門正晴が幕府御代官として管理していた六十一ヶ村・一万四千二百六十五石七斗七升五合七勺を加賀藩へ委託することが命じられる。能登では度々幕府領との紛議で代官と交渉せねばならず、しかも幕府領民は気位が高かった。吉宗は綱紀に心服し中納言への昇任を考えに入れていたが、先の仙石との争いもあり推挙しづらい状況であったため、この措置はその代替であったとも。直ちに算用場横山長元が御預地方御用を兼ね改作法を導入する。同月放鷹の際に従来から注意すべきことの励行を告げた。
七月三日吉宗は諸侯を召し在府期間の短縮(半年在府・一年半在国)と米穀上納(一万石に付米百石)を命じる。綱紀の名代として吉治が登城すべきところ吉治までも「御腫物御痛」のため、高家で菅原道真を共通の祖と称する縁もあり前田伊豆守長泰(式部権大輔高辻長量の次男)が名代として出た。富山の前田利興は自分で出たが、利章の名代に旗本本多帯刀、七日市前田丹後守利理の名代に実父で旗本の前田帯刀が出る。九月十九日松姫三回忌法会を江戸伝通院で営んだ。十月四日平尾邸で吉治が鷹狩を行い、真鴨六と小鴨一を獲る。六日吉宗へ雌雄の真鴨を献じ、綱紀へ二、安芸御前と因幡御前へは一ずつ、窕姫には小鴨を進めた。十三日吉宗は昨日志村辺りでの鷹狩で捕獲した鶉五を綱紀に賜い、吉治が登城して謝す。
三十三、前田利興への対処
同八年正月頃から富山の利興の行跡が指摘されていた(浚新秘策)。前田利興は延宝六年五月二十七日に富山で生まれ、幼名は万徳丸、後に主膳とも称す。幼児の時に蟹に手を挟まれたが慌てず蟹の手を噛んで離したという逸話がある。貞享四年三月十五日十歳で出府し、元禄五年七月二十八日に徳川綱吉に謁見、同七年十二月十八日に従五位下・長門守に任官して二十七日に元服する。正甫の病が重いことを聞き、宝永三年四月に江戸から急ぎ戻る途中の糸魚川で卒去の報に接し、江戸へ戻って六月六日に家督を相続、八月二十一日には弟の利由を百五十人扶持、甫丸を七十五人扶持とするよう差配し、十二月十九日従四位下に進んだ。弓術の吉田茂信、大坪流馬術の佐々木百助、軍螺式の沢井忠道と清右衛門を召し、尾張から大仙流砲術瀬川常重が寄った際には河上秀直と大島助右衛門を入門させた。
同四年十月一日に富山へ入るが、四日に紀伊半島沖を震源に大地震が発生し、十一月二十三日に富士山が噴火する。同五年閏正月に江戸より飛脚があり、幕府が除灰のための資金を全国諸大名と旗本に命じたこと、三月までに納めることを知らせた(諸国高役金令)。これは禄高百石に付き二両ずつ上納することで全土二千二百八万五千四百八十二石を対象に四十四万千七百八両余の確保を企図した幕令である(年内に金四十八万八千七百七十両余・銀一貫八百七十目余が集まり六万二千五百両余を支出)。利興は七月に法度を改め家中の引き締めを図り、さらに芝増上寺の普請にも当たった。その上に江戸邸の修繕も必要であった。同七年四月二日に大聖寺前田利直女の富紀姫と婚儀を挙げるが、二年後の正徳二年三月十一日に姫は十九歳で卒する。同四年には富山城の本丸が焼けて東出丸に移り、享保八年には石垣を修築しなければならなかった。
財政支出の拡大に対し、利興は就任直後の宝永三年に八月三十二人と十月五十一人、翌年十九人もの家中人数の大整理を断行、さらに出張経費を減らし、郡方に五ケ村組を導入して年貢納入に漏れがないよう指示する。奢侈禁止令を出すが、吉村新八が考案した鮎寿司を気に入り、将軍家へ献上したとも伝わる(鱒寿司の起源)。
しかし銀札の信用が崩れ、苦難の連続に耐えかねた利興は享保八年正月晦日から江戸藩邸内の土蔵に引篭もり、誰とも会おうとはしなくなってしまう。参勤さえもしないため本多帯刀は一族の問題であると追及し、従兄である老中水野忠之は加賀藩を通じて隠居させようとするが、綱紀が庇って親族や重臣の意見を抑えていた。しかし同九年に吉治が継ぐと前田一族の重大事として受け止め、利興の弟である利隆を江戸に呼び寄せ、六月養子として七月十八日に半ば強制的に家督を相続させた。
利興は長門守を保持するが、同十八年五月十九日に五十六歳で卒去。宝永四年三月二十四日に亀千代(母は家中木村孫助女)が生まれたが翌年閏正月六日に夭折している。
三十四、綱紀の隠居・晩年
同八年正月領内の十村等から高札場所についての報告があり、越中では捨馬御高札が砺波郡村方に三か所、新川郡村方に三か所あり、射水郡では高札は宿方や浦方にもあるが、浦方には建てられない場所もあると記す。二十二日吉宗四十歳の初老を祝して、綱紀は二種二荷、吉治は一種一荷を献じた。二月十三日吉宗は捕らえた鶴を綱紀に下賜する。同月綱紀は右眼の異常を強く感じ、榎並玄怡に治療させた。三月十五日綱紀は就封の暇を受け、これまでは御時服百領と白銀千枚の下賜が相場であったが、節約のため縮緬三十巻と白銀百枚を賜う。十五日御礼に伺候することが歩行困難で出来ず、吉治が代りに登営する。
四月十二日八十一歳になった綱紀は隠居の意思を幕府へ告げ、二十六日懇意の旗本御先手六郷主馬を通じて老中戸田山城守に隠居の願書を提出した。そこには近年老衰しそのうえ昨年の冬から眼痛ひとしお、歩行は不自由で帰国の御暇の御礼のための登営さえ出来ない有様とある。金沢の家中へは七十歳の隠居を奨励し自身退隠する意思を認めた書状を近習物頭武藤庄兵衛に持たせ翌日出立させた。
五月一日綱紀が金沢の老臣等に書を出し出府の準備を令す。九日吉宗は綱紀名代(女聟)池田吉泰と吉治を召し綱紀の隠居と吉治の家督相続を許した。十五日吉治が登営し、吉宗に御黒書院で謁した。二十一日綱紀隠居が許可されたことを金沢で披露する。二十四日このことが領内に触れられ、二十八日綱紀は諸奉行や家中一同に命じ、領内が乱れて放火するような者が出ないよう治安維持に努めることを告げる。
昨日(八日)御奉書に依て、綱紀公御名代右衞門(九日)督吉泰朝臣、吉治公御登城之處(吉徳)、於二御座間一直に綱紀公御隱居、吉治公御家督被二仰付一之由上意有レ之。
今般加賀守(綱紀)隱居被二相願一に依て其通被二仰出一、且又若狹守(吉徳)家督被レ願之通、目出度被二思召一候。先以八十有餘迄政務無レ悉、領國之人民朝暮安堵之思を成、其業を不レ忘事、誠以近代天下に無二其例一、御羨敷被二思召一候。此上は萬端被二指止一可レ有二休息一候。久々御對顏無レ之候。下乘より歩行の間も程遠く、被レ致二難儀一之段被二聞召一候。痛所氣色次第、平河口より登城可レ有候。尤先達而不レ及二案内一、何時に不レ寄可レ被二罷出一候。御對顏可レ被レ遊と思召之旨上意云々。
〔參議公年表〕
六月十一日西尾隼人に京へ代替わりをお伝えする使者を命じ(七月二十五日出立)、本多政質を松平安房守通温が卒していたため幕府の許可を得て周防守から代々叙任の安房守に復させる。十五日綱紀が肥前守に転じ養老領は断り、吉治が加賀守に任ぜられた。十六日今枝民部の体が不自由なため幕府に前田近江守が許されていた江戸での乗輿を、近江守病気のため今枝に替えて出願し許される。二十八日改宗・寺替に関する正徳元年の規定を確認し、吉治が登営して家督相続を謝し、銀百枚・縮緬二十巻・綿五十把・青江直次の刀代金二十枚・馬二疋を献上、綱紀も紗綾三巻・銀三十枚を献上した。七月七日吉治は御白書院で吉宗に謁す。なお吉治が吉徳を称したのは元文五年十一月一日参議補任後の十六日からである。十八日幕府での代替わりの礼が終わったことを金沢に知らせた。十九日綱紀は津田刑部敬修を日光に派して、二十三日東照宮へ御太刀・馬代金一枚、御霊屋へ白銀三枚を供えた。二十一日吉治は綱紀を饗応しようと招くが、綱紀は指が痛くて盃事は出来ないと断った。吉治が家督相続披露のため二十六日に老中、二十九日一門を招き能五番を催した。八月四日と七日には出入町人五百十一日を招待して能を催し、十六日安芸御前・因幡御前・窕姫・誠姫(寿君)や安芸御前御子岩松(後の浅野宗恒)を招き能を披露した。十八日吉治が左近衛権中将に昇任し綱紀は老中への御礼を前田伊豆守に託した。二十二日綱紀が致仕を謝して島津正宗の刀を吉宗に献じる。吉宗の嫡男長福丸(家重)にも正宗の刀、小次郎(後の田安宗武)へ来国光の指添、小五郎(後の一橋宗尹)へは当麻の指添を呈した。二十八日吉治が登営し昇任を謝し、太刀馬代金一枚・縞紗十巻と裸馬一疋をいずれも目録で献じ、老中へも物を進じた。九月一日吉治は綱紀へ御居間で御太刀・御肴箱・御馬代金を差上げ昇任を謝した。十一日には御大小将頭溝口七太夫貞勝を東照宮へ派し、御太刀・馬代金一枚と御霊屋へ白銀三枚を供える。
十三日老中松平右近将監が上使として訪れ、吉治へ就封の暇を与え紗綾三十巻と白銀百枚を下した。吉治は御料理と御盃でもてなし、中島来御刀代金十三枚を御取持の六郷主馬が持ち出し進呈した。十三日登営して辞見すると、吉宗は備前近包の御刀代金二十枚と鷹二居・馬二疋を下賜する。だが吉治は綱紀の病状が悪化していたため江戸を離れることが出来なかった。同日窕姫が酒井忠寄に嫁す。前日夜まで雨であったが当日の朝は快晴であった。十五日酒井邸で婚儀があり、二十一日綱紀は赴くことが出来ないため御小将頭溝口七太夫を遣わし、忠寄に御太刀馬代と紗綾五巻・二種一荷、養父の酒井忠真にも同様、窕姫へは縮緬十巻と白銀二十枚・二種一荷を贈る。吉治からは信国御太刀代金十五枚と延寿国泰御脇差代金十三枚を贈っている。二十七日吉治は幕府へ綱紀の看病で在付したいとの申請を出し許される。十月十一日吉治への口宣を受領するため上京させていた品川主殿が伝奏屋敷で拝領する。これを御大小将荒木津太夫が金沢を経て二十二日に江戸へ持参した。
十二月六日吉宗が吉治に鷹狩で捕った鶴を贈る。十八日幕府から家臣二人を叙爵させる命があり、横山監物貴林(たかもと)を大和守、本多政質が八月二十二日に卒していたため弟の本多嘉藤次政昌を安房守に任じる。二十六日十村で処罰中の者の鍬手米や代官口米の処分法について定め、禁牢は組下から集めた鍬手米・代官口米とも取上げ、禁牢前日までの分と出牢翌日からの分は渡す、遠慮では鍬手米を渡し代官口米は割符(為替か)で受け取る、追込や同郡十村等預けで番人が添えられる時は禁牢と同じ扱いとする。同年綱紀が命じて金沢城外蓮池邸の庭に松を植え、古に蓮池は天子以外は入れないとされていたとして「れんち」とは言わず「はすいけ」と唱えるよう指示した。綱紀は視力が衰えていても吉治との書状の往復は欠かさなかった。
同九年正月一日綱紀は肩が痛いと年頭の賀を受けなかった。吉治にも使者を寄こすのみでよいと伝えたが、吉治は御次まで来て年頭御礼を行う。家中へは帰国で良いとして江戸での御礼の儀も延引した。金沢では横山大和守と本多安房守の諸大夫就任が告げられる。二月七日幕府は加賀藩へ委託した土地からの租税収入が増えたことを賞す。十日幕府は綱紀が献じた『清獬眼抄』(金沢文庫本の新写)を納めた。二十六日横山大和守と本多安房守が就任を謝すため江戸に着き、吉治と御居間書院で、綱紀と御居間で目通りし、本多が乗物御免を申請した。二十七日横山と本多は朝に老中へ御太刀馬代・綿三十把、若年寄へ御太刀馬代・綿二十把、御側衆へ御太刀馬代・綿十把を進上し、御小書院で吉治へ御太刀馬代と綿十把を御目録で献じる。本多は組御預加判を命ぜられた御礼に吉治へ御太刀馬代と綿十把、横山は出府に付き干鱈一箱、本多は寒塩雁二を献上、綱紀へは御太刀馬代と紗綾二巻ずつ、さらに本多は組御預等の御礼として御太刀馬代と干鯛一箱、横山は出府に付き串海鼠一箱、本多も寒塩鴨を献上した。吉治からは両名を召し御熨斗鮑を手づから下し、御居間書院の二之間で御料理・御吸物が出される。上の間に吉治が来て御盃を下し、御刀大和国尻掛代金七十五両を横山、美濃為継代金十枚を本多へ賜う。綱紀からは御近習伊藤平太夫を遣わし御菓子塗御重一組、別に本多へは高代の御刀を下した。
三月一日吉治が昨年冬に吉宗から賜った鶴を披露する。一門初め八十人余を招き御囃子で饗応し、吉治は富永数馬を召して綱紀へ鶴を小御捲指渡三寸計の杉木台に乗せ直接手渡しした。
吉治は正月十日岡田伊右衛門を遣わし綱紀の鑓の御粒子の鞘を拝領したいと申し出る。修復中であったため松尾縫へ伝えて綱紀へ申し上げると、そうしようと思っていたところであり、自分の鞘は利常の物とは違って二・三度替えているが、気に入ったのならそれで良い、との返答であった。三月一日綱紀から御鑓と御道中御持のための丸御鳥毛の御鍵鎗が吉治へ贈られた。
四日家中の婚礼や養子縁組の祝儀を簡略化するよう達し、衣服に縐紗や紗綾を用いるのなら羽二重に、羽二重なら絹に、絹なら紬か木綿にすること等を指示する。八日横山と本多が帰国の途に就く。十三日窕姫を柳原御前と称す。譜代に嫁いだ場合は通常御前様とは言わないが由緒柄用いることにした。十八日左の眼にも痛みが出ていた綱紀は病気が癒えないためとして帰国の延期を申請する。
四月綱紀の病状は一進一退であったが、二十七日池田玄真が薬を処方し右肩の痛みが和らぐ。しかし一時的で閏四月脊椎が強く痛む。二日吉治は近習物頭羽田伝左衛門正永を伊勢神宮に派して快癒を祈祷し金五枚を供えた。七日吉治の江戸滞留が許される。五月一日吉治は山王観理院・樹下民部・牛込長久寺や領内の白山・石動山・倶利伽羅の諸寺で祈祷させる。二日吉宗は奏者丹羽式部少輔董氏を遣わし慰問した。四日藩医の南保玄隆が金沢を発ち江戸へ向かう。五日吉宗が御奏者番藤堂伊豆守を遣わし干鱚一籠を下賜する。朝に綱紀は少し良くなり吉治と話して直封の長持を譲与する。六日御医者いずれも快復の望みが無いことを報告する。一門や姫方も入り、御三家や幕閣から使者が連日訪れた。九日ついに江戸で薨去する。八十二歳であった。
相公(綱紀)樣御客體等之大綱は、第一、五ヶ年前參勤之節、松姫君(吉徳夫人)樣御逝去之段於二御途中一被二聞召一、殊之外御氣を被レ打、其以後御勝不レ被レ遊候得共押而御勤。然所去々年(享保七年)より右之方御眠氣御痛被レ爲二見兼一、御左眼へも御移に付、御療治被二仰付一候得共御宜無二御座一處、榎並立恰療治に而御左眼は御快。其後御右肩被レ爲レ痛、御腕もしびれ、御指も御不レ叶に付、前々より御服用も被レ遊候橘隆庵老御藥御用の處、御替無二御座一に付、澁江松軒老御藥久々御用之處、御右肩御痛は退候得共、方々へ御痛移、今年(享保九年)閏四月上旬比より、御背中身柱の邊より第四五節之邊迄強く御痛、御手醫師玄眞御藥、壽齋並寺島勾當御針差上候處、暫御快候得共指而御替無二御座一、御立歸隆庵老御藥御用之處、少々御快方に候得共、御背中並御統御痛強、御起臥に御難儀に付御近習之者奉レ抱、御食事之節も御右之手別而御不レ叶に付御箸難レ被レ爲レ持、御側之者手を添指上、御大小用に被レ爲レ入候節は半疊に被レ爲レ乘、御近習之者奉レ舁。然處同月二十八日比より御小用御滯、五月二日比より御疲も被レ爲レ出御指重、昨日(十九日)より御食不レ被二召上一、今二十日粥二十目計被二召上一、夜に入御不出來、隆庵老御指圖獨參湯指上。御庫藏より人參多出候處、古藥に成能利少き故、宗對馬守(義誠)殿へ被二仰遣一、新渡人參御用候。三日より參附湯御用、少々御脈勢等宜、味曾汁・團子一ツ之目五分八厘宛を十六、田樂二ツ半被二召上一。前記之通御醫師中詰方、且依(マヽ)而諸頭も朔日以來晝夜相詰有レ之候處、不レ及二其儀一候旨被二仰出一。四日御不出來、隆庵老御療治御斷、岡道溪老へ御頼之處、御療治難レ被レ成旨に候得共、中將(吉徳)樣達而御頼に付御藥御調合。五日朝之内少御快、前記之通中將樣御閑談後御指重、道溪老參五匁姜二匁御調合。其後御手醫師中僉議之上、拾匁之獨參湯上レ之。六日次第に御疲被レ爲レ出、道溪老御斷、井關玄悦老え中將樣達而御頼に付御藥調合、十五匁之獨參湯御用。七日御同樣。八日玄悦老御診之上御大切至極と被二申上一、御藥御調合無レ之。依而河野松庵老等並町醫都合六人診之處、何も御療治無レ之旨被二申上一。九日南保玄隆參着、診之上一貼調合上レ之。最早御療養無レ之旨言上、栗本瑞見老も同樣に被二申上一。午刻過御大切至極、安藝・因幡(節姫・敬姫)兩御前樣等御對顏、御人佛に付池田玄貞・林伯立・久保壽齋御側に相詰有レ之處、午中刻御逝去。御年八十二。御治世七十九年。 〔政鄰記〕
十一日吉宗は奏者番井上河内守正之に香奠銀五十枚を持たせる。金沢への飛脚は八日に出し、御馬廻組大橋織江信成が十一日に上下五人で急ぎ出立し十七日に江戸へ着くが、悲報に接し十九日金沢へ戻る。九日に北川久兵衛が金沢へ出立し悲報を十三日金沢へ伝えた。法諡は松雲院、十日広徳寺で仮に定め、十三日天徳院より奉った。吉治の生母は預玄院を称し様付の待遇を受ける。十四日柩を下街道経由で帰国させることを決め、十五日から越中境から金沢へ至る道を細い所は広くし、両方に玉縁を取って砂を敷き、小川には橋、大川には舟橋を架ける等修繕する。十六日より野田山御廟所を人足毎日三千人余で普請した。十七日葬礼の奉行に奥村伊予守を任ず。同日金沢の年寄以下家中が江戸へ弔問の使者を発す(二十六日着)。十八日幅五尺・長さ六尺の三重の御座柩が完成し、十九日吉治は柩に供奉する諸士を召して労した。二十日柩が江戸を発し、吉治は追分御門まで徒歩で随い、家中は御邸内御道筋に蹲踞する。利章も追分口御門まで随い、上尾まで本多図書が付き随った。道中は途中信濃犀川で洪水があり一日逗留を余儀なくされ、川田へ廻り泊・魚津・小杉・今石動・津幡と宿泊しながら進んで、金沢へは六日の予定を七日に入り、辰上刻に天徳院へ着く。二十一日と二十二日に江戸広徳寺で追弔法会を執行した。二十三日金沢城下では簾をあげて弔意を表し、魚や鳥は塩物だけを売買する(六月一日解除)。二十六日柩が金沢へ入る際に路傍で拝観することを禁じる。二十八日吉治が江戸で赦を行うことを告げた。二十八日御側小将を御奥小将、御近習横目を御奥小将横目と改める。六月六日家中が月代を剃る日限を定め、年寄・家老や御近習は五十日、吉治の近習等は三十五日、御歩は三十日とした。七日柩が金沢へ着いたので十日に野田山へ移す。十四日から二夜三日天徳院で追弔法会を執行した。十八日大赦で五十三人が牢を出た。ただし赤尾三太夫等は死罪を一等減じ五箇山大崩島村へ流罪とする。赤尾は享保二年に大坂御買手役を任されたが大坂で不行跡があり、同六年九月二十七日に金沢へ戻り篠原将監預けとなっていた。明日まで金沢玉泉寺で窮民へ施行する(十八日男・十九日女)。十九日には天徳院で三十五日目(?)の追弔法会を行う。二十四日本願寺別院で追弔法会、二十八日天徳院で四十九日目の追弔法会を行い、翌日百日法会を予告する。七月九日位牌所と墓所参拝に付き令し、十一日吉治は江戸を発し領国へ入った。
吉治の帰国の途は順調であり、十八日境・十九日魚津・二十日高岡・二十一日津幡に宿泊し、二十二日金沢へ入った。二十三日と二十四日には城下で祝賀があり、二十四日吉治は来月一日以降家中の拝礼を受けることを告げた。二十五日利章から使者が派され入国を祝う。二十六日二條綱平や全国各地から祝いの使者が来た。八月一日から家中が賀し、十四日故無く改名することを禁じる。十七日吉治は金沢神護寺や野田山廟を参詣する。十八日御次番を御近習番と改名した。十九日参勤を十一月上旬と告げた。二十一日入国祝儀として座頭や瞽女に青銅二十五貫文を下した。
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